量介
量介は六才になると立原翠軒先生の私塾に通いはじめました。翠軒は彰考館で編集員を勤める有能な儒者です。この数年後には彰考館総裁となります。彰考館とは、水戸藩二代藩主光圀公が業を興して以来、営々と続けられている大日本史編纂という修史事業のために設立された機関です。
水戸藩といえば藩校弘道館が思い浮かびますが、これは九代藩主斉昭公が藩政改革の一環として設立したもので、この頃にはまだ存在していません。だから、藩士の子弟教育は各家および私塾に任されていました。藩から許可を得た者だけが私塾を開くことができ、武家屋敷内の長屋が塾になります。武家屋敷は実に広いもので、百石程度の平士でさえ三百坪の敷地を与えられていました。
水戸藩の子弟は私塾のことを「お塾」といいます。子供達はまだ暗いうちに起き出して、夏は那珂川から立ち上る霧の中を、冬は霜を踏みしめて、お塾へ向かいます。門がまだ閉まっていることもあります。小さな手で門を叩くと、やがて門番が開けてくれます。子供達は我先にと駈けだしてお塾の長屋へ向かいます。お塾の長押には塾生の名を書いた木札がズラリと並んで掛かっています。ざっと六、七十人分の名札があります。塾生は自分の名札をひっくり返します。その時、誰が今日の一番乗りかが分かります。子供は競争が大好きです。一番乗りの子供は喜色満面、負けた者は「明日こそ」と思いを新たにします。壁際に積み上げられた文机を持って、自分の席に着きます。その時、自分の文机の上に先輩の文机が載っていれば、それを先輩の席に運んでおきます。後から来た先輩は、目下の後輩にきちんとお礼を言います。実に礼儀正しい。幼い子供にとっては先輩から礼を言われることが誇らしく、うれしいことでした。
席に着くと子供達はおのおの素読をはじめます。各自の進捗具合に応じて本を掲げ持ち、大きな声をあげて読み上げます。やがて年長の塾生もやってきて、教室内がいっぱいになると、何十人もの素読の声が交錯して実に賑やかになります。翠軒先生が教室の正面に座ると、教室内の空気が引き締まり、子供達の声が一段と大きくなります。誰の声がどの声ともわかりかねる中、朗々と落ち着いた声を響かせる子供が稀に現れます。そういう塾生は例外なく優秀でした。
まだ暗いうちから起きだして来ているので、幼い子供の中には寝ぼけて着物を裏表に着ていたりします。屋内が明るくなってきて、それとわかると、本人は恥ずかしい思いをし、周囲は笑いをこらえるのに必死になります。そんな場合、立原家の奥方が気を利かせて別室に子供を連れていき、着直させてくれます。
朝飯前の素読が終わると、塾生はいったん家に帰り、朝食をすませ、弁当を持って再びやってきます。今度は手習い、つまり習字です。先生のお手本を見ながら手習い草紙に何度も何度も書いて練習します。たまに清書を提出します。私塾の科目はこれだけ、つまり素読と手習いだけです。翠軒先生には公務があり、自身の研究課題もあるので、常に塾にいるわけではありません。そういう場合には塾頭が先生の代わりを勤めますが、塾頭とてやはり忙しい。先生も塾頭もいなくなれば、子供らは手習いに飽き、遊びはじめます。そういうことも、ある程度は大目に見られていました。人のことをあれこれ噂しあったり、冗談をいって友だちを笑わせたり、役者の物真似をして喜んだり、喧嘩をしたり、泣かされたり、顔に落書きしたり、教室は騒然としてきます。
そんな時、量介はよくしゃべりました。議論が大好きで、しかも年上の先輩に対して物おじせず、ズケズケと意見を述べ、時に先輩を向こうに回して大声で自説を力説しました。ときどき議論に負けてやりこめられると、癇癪を起こして悪口を言ったり、乱暴をはたらいたりもします。量介は青山家にとってたった一人の跡取り息子だったので大切に育てられました。そのせいかどうか甘えん坊で我がままなところがありました。食事の旨い不味いを平気で口にしました。武士らしからぬこの癖は大人になっても直りませんでした。
そんな騒然たる教室に、一仕事を終えた翠軒先生が顔を出そうものならば、一瞬のうちに空気が凍りつきます。子供達は蜘蛛の子が散らばるように自分の席へとすっ飛び、急に真面目な顔をして、何事もなかったかのように手習いをはじめます。ときに要領の悪い子供がオタオタとしていますが、それを笑う余裕もないほどに翠軒先生の威厳は巨大です。先生が正面の席に座り、手にした青竹で文机をビシリと打つと年少の塾生は目に見えるほどにビクリと背中を反応させます。やがて手習いが終わると、机と文庫をかたづけて、きちんと礼をし、名札を返して帰っていきます。
お塾へは六、七才から十六、七才くらいまで通い続けます。儒学の教育は素読からはじまり、講義、会業、詩文と進みます。このうち素読とは、経書をくり返して音読し、暗誦することです。幼い子供に意味はわかりません。しかし、とにかく経書を音で身体に染みこませてしまいます。字指し棒で一文字一文字指し示しながら先生が読み上げていきます。子供はオウム返しに声を出して復唱します。これは一対一の指導です。ひととおり覚えたら、後は子供が自分で復読し、記憶を確かなものにしていきます。翌日、記憶が確かかどうかを先生が確認し、その先へと進みます。一度に進むのは僅かですが、子供の能力に応じて進み方を先生が裁量します。このような個別指導でしたから、この時代の師弟関係は実に愛情の細やかなもので、塾生にとってお塾の先生は生涯の師となりました。なにしろ師は十年もの長きにわたって塾生の成長を見つづけることになるので、塾生の性格や長所短所を見きわめて助言を与え、指導することができました。その教えは塾生の心に響き、大きな信頼関係が生まれました。
量介の元服が近づいたある日、立原翠軒先生が量介に説諭しました。
「いいか、よく聞きなさい」
立原先生は量介の性格についてひとつの指摘をしました。
「お前は何事か着想なり、思いつきなりを得ると、その自己の着想に酔い、無我夢中になって人にしゃべり、是非にでも同意を得なければ納得しない。とてもせっかちで、じっくりと腰を落ち着けて考えを熟させることが苦手なようだ。しかも、それを人に話したがり、同意を得られないと、相手に対して癇癪を起こす。相手の立場になって見よ。迷惑このうえない。お前は気づいておらぬかも知れぬが、塾生の中にはお前との議論を避けようとする者さえいる」
翠軒先生は噛んで含めるように諭します。
「よいか、まだ頭の中で熟しもせぬ思いつきを軽々しく大げさに、しかも相手構わずしゃべり散らすのは控えなさい。そうしないとまわりの者たちは、また青山が何か言っているといって敬遠し、まともに相手にしなくなるぞよ。何か着想なり、考えなり、意見なり、計画なりを思いついたら、ゆっくり構えて、よくよく練り直し、考え直し、よりよいものに仕上げることだ。いきなり人に話して、むりにでも同意を得ようと騒ぎ立てるのはよくない癖だから、落ち着いてよく考えなさい。それからなあ、相手にわかってもらうためには何度も丁寧に話さなくてはいけない。押しつければ相手は逃げるのだ。相手にわかってもらうためには謙る心を持つことだ」
翠軒先生は量介の学問の進捗には満足していたし、一本気で裏表のない性格に好感を持っていました。だからこその説諭です。
ちなみに翠軒先生にはもうひとり、気にかけている塾生がいます。私塾には足軽、百姓、町人の子弟も通ってきます。彼らは武士の子弟の部屋ではなく、別室で学んでいます。それを「お下」と呼びます。その「お下」に非凡な秀才がいました。量介より二才年上のその少年は、古着商の次男坊で名を熊之介といいます。後の藤田幽谷です。
天明六年、立原翠軒は彰考館総裁となりました。翠軒は滞っていた大日本史編纂の事業を再興すべく奮闘します。彰考館に所蔵されていたすべての蔵書を整理し直し、欠本や欠落を補写しました。なにしろ光圀公以来、延々と集積されてきた厖大な史料群です。多大な労力と時間を費やしましたが、この作業のおかげで修史事業再興の基盤を確立することができました。優秀な部下を必要としていた翠軒は、弱冠十四才の藤田幽谷を彰考館に入れ、仕事を手伝わせました。そして、翌年には幽谷を正式な彰考館員に任命しました。これにより幽谷は士分に取り立てられました。
五年遅れて十八才の量介、つまり青山延于も彰考館員となりました。寛政六年のことです。
二代藩主光圀公は、彰考館員の採用にあたっては身分にかかわらず能力次第で採用する方針をとりました。あわせて館内における議論を奨励しました。この伝統のせいかどうか、水戸藩では談論風発の藩風が醸成されました。水戸人のことを水戸っぽといいますが、怒りっぽくて理屈っぽいのというのが世間の評です。彰考館で机を並べる間柄となった藤田幽谷と青山延于にとって、この藩風は望むところでした。なにしろ両人ともに周囲の人々が辟易するほどの議論好きです。しかしながら、同じ議論好きといっても、ふたりには色合いの違いがあります。延于の議論には政治臭がありませんでした。あくまでも自己を儒官と認識し、歴史考証家の立場を踏み外そうとはしませんでした。常に政治的に中立の立場から意見を述べたのです。相手が上司であろうと先輩であろうと議論にいっさいの容赦をせず、ときに激論に及ぶこともありましたが、あくまでも考証学上の議論です。稀に政治向きの意見を述べることがあっても、みずからが政治力を発揮して事を為そうという野心はありませんでした。
藤田幽谷は違います。幽谷の志は政治にあり、大袈裟でなく藩政の改革を目指しています。超人的な記憶力と才気に恵まれて町人の子に生まれた幽谷の心には、封建社会に対する抜きがたい反感が育っていたようです。徹底した能力主義者である幽谷は、門閥家の世襲による職制を「賢愚倒置」とまで極論しました。彼にとって学問はあくまでも藩政改革の手段であり、政治と学問との一致を目指しました。幽谷は、議論を単なる議論で終わらせるつもりがなく、自説をあくまでも実現しようとしました。そのため議論には血の出るような具体性があり、それだけに波風が立ち、時に人を中傷することもありました。また、幽谷は賛同者をつのり、人を動かし、派閥を養いました。後年のことになりますが、幽谷は彰考館総裁と郡奉行とを兼務して政学一致を実践することになります。
幽谷は小さな事柄にもいちいち問題を見つけ出し、豊富な学識を使って自説を華麗な言辞で彩ります。そんな大袈裟なところがありました。例えば「おやめ下さい」と言ったり書いたりすればよいところを、「今この時に当たり、斯様な悪弊を続けるならば、近い将来必ずや大なる禍根を生ずるに違いなく、これを看過することはその罪万死に値する」などと言ったり、書いたりするのです。延于はそんな幽谷をからかったことがあります。
「熊之介さんの言うことはいちいち御大層すぎます」
熊之介は幽谷の幼名です。しかし、幽谷の考えは違いました。
「どのような些事に対してもおのれの学識のすべてをささげ尽くして臨むべきである。そうではないか、量介」
幽谷から見れば、延于が馬鹿にみえました。
(延于には志がない。あいつは所詮、本の虫であり、腐儒である)
たしかに延于は政治に無関心です。むしろ延于から見れば、幽谷の異常なまでの政治好きが理解できません。
(どうしてそこまで功をあせるのか。熊之介さんの言動はいつも敵と味方をつくる。派閥をつくって何をするのか)
過剰な修飾に富み、聞く人をして悲憤慷慨せしめずにおかない幽谷の言論は、賛成者にとっては大いに魅力的でしたが、反対者にとっては実に忌々しいものです。商人から士分に取り立てられた幽谷は、ただでさえ名門旧家からの反感を買いやすかったのに、幽谷は悪評をいっさい顧慮しません。むしろ挑戦的です。立原翠軒の推挙によって彰考館員となり、士分に取り立てられたにもかかわらず、その地位にまったく満足しておらず、恋々ともしていませんでした。その意味で英雄的気質の持ち主でした。




