妾
水戸藩中興の祖といわれる第六代藩主の治保公が藩政改革に苦心していた頃、百五十石どりの水戸藩士青山一之進は妾をとりました。一之進は儒学をもって藩に仕え、小笠原流礼法の師範も兼ねています。年令はすでに四十才を過ぎていますが、子宝に恵まれませんでした。妾はまだ十六才でしかありません。この時代の女性は早婚でした。
その娘は、湊の生家から水戸城下まで那珂川を遡航していきます。順風に推されて髙瀨舟の帆が目一杯に膨らんでいます。実家は海産物問屋の二川屋でしたから、舟には幼い頃から乗り慣れています。親からひととおりの作法と覚悟を教えられては来ましたが、実感は湧きません。まだ現実を知らない娘は、御武家の姫御前にでもなるつもりでいたかもしれません。
水戸領内で湊といえば、現在の那珂湊のことです。那珂川の河口に位置し、太平洋の海運と那珂川および涸沼川の舟運とで賑わっています。二川屋も大いに繁盛していました。裕福な商家で育った娘は、いちおうの手習いや針仕事は身につけさせられていました。商業地の自由闊達な雰囲気の中でのびのびと育ち、芝居見物や物見遊山にも頻繁に出かけ、この時代の娘としては我がままかつ贅沢に育てられたといってよいでしょう。とはいえ、どんなわがまま娘でも、結婚相手を自分で決めることはできません。そういう時代でした。親の決めた嫁ぎ先に何の疑いも持たずに嫁いでいきます。二川屋の両親にしてみれば、商人の娘が妾とはいえ武家に御奉公できることは名誉でした。身分がものをいった時代です。
青山家の様子がわかるにつれて、二川屋の娘はその貧乏ぶりに驚嘆し、その行儀作法の堅苦しさに閉口しました。武家の男たちは、たとえどんなに貧乏でも傲然と胸をはっていて金勘定などはしません。貧乏はすべて一家の女たちの労働によって穴埋めされています。青山家の女たちは、正妻も妾も親類も女中も、すべて奉公人のように終日働いてばかりです。朝は暗いうちに起き出し、炊事、洗濯、掃除などの家事をすませます。広い武家屋敷の敷地の一角には畑があって、農作業をします。味噌や漬物を仕込みます。農家から綿を買い入れ、それを糸に繰り、賃機を織ります。山のような針仕事を黙々とこなさねばなりません。二川屋の娘も正妻の命令にしたがって働きました。
実家が問屋だっただけに、二川屋の娘は働く人々の姿をよく見知っていました。彼女の父母も奉公人たちもテキパキとよく動き、何事につけても威勢がよいものでした。冗談やへらず口をたたきながら、きつい肉体労働に挑む屈強な男達、常に商機を見逃すまいと才気を働かせる番頭、顔をクシャクシャにして愛想笑いをし、驚くほどに腰をまげてお辞儀をする手代などを見て育ちました。女たちも遠慮なく大きな声を出し、景気よく働きました。時には男をやりこめ、笑うときには大口を開けて笑いました。商家の女たちが針仕事をするときには実によく喋ります。口を動かせば動かすほど針も進むのです。
ところが、同じ労働でも武家のそれは雰囲気が全く異なっていました。喜びがないのです。何から何まで格式ばっています。当主が儒者であり、かつ小笠原流礼法の師範でもあったので無理もなかったのですが、商家育ちの娘の気性にはまったく合いませんでした。食事さえ格式にしばられ、味を感じる余裕もありません。肩身狭く押し黙って針仕事をしていると、二川屋での生活がなつかしくてたまらなくなりました。
水戸藩では百石ないし二百石程度の武家はどこも似たり寄ったりの貧乏所帯です。「水戸藩貧乏」という言葉があったくらいです。そもそも水戸藩の実収入が二十五万石であったにもかかわらず、三代藩主綱條公が三十五万石と見栄を張ったからたまりません。実力以上の負担が水戸藩財政に、ひいては水戸藩士の家計に、さらには水戸藩領の農民にふりかかりました。武士の家禄は玄米によって支給されるのが一般的でした。ところが水戸藩だけは籾の状態で支給されました。籾百石は玄米五十石でしかないのです。水戸藩では、女たちの無償労働が武家の家計を支えていたといえます。
やがて二川屋の娘は妊娠し、青山家待望の男児を出産しました。幸いなことに母子ともに健康です。
「でかしたぞ」
この時ばかりは当主の一之進が直々にほめてくれました。が、出産の喜びにひたっていられたのも束の間、二川屋の娘は身分という現実に頬をはたかれました。妾はあくまでも奉公人です。お腹を痛めて生んだわが子を、自分の腕に抱くことは許されません。自分が生んだ男児はあくまでも正妻の子であり、妾にとっては平伏して仕えるべき若君様です。産み終えた今は乳母に過ぎないのです。愛情にまかせてわが子を抱き、乳を飲ませ、添い寝することはいっさい許されません。何事にも正妻の許可が要ります。母乳が必要なときだけ、正妻の監視の下に乳を飲ませてやることができました。子供の泣き声が聞こえてきても世話を焼きに走ることはできず、与えられた労働に従事せねばなりませんでした。ある日、いつもどおりに乳飲み子を抱き、乳房を含ませていました。監視している正妻が言います。
「もうよい。それまで」
「はい、わかりました」
とは言いましたが、乳飲み子はまだ乳房を恋しがります。
「申しわけありません、まだ欲しがっておりますので、いましばらく」
「だまりゃ!妾の分際で口答えするか!」
正妻は嫉妬に満ちた形相で睨みつけると、乳飲み子をひっぱがし、泣くのも構わず持ち去りました。この時、妾の娘の心の中で何かが弾けました。
(もうどうでもいい)
この正妻はけっして狂人ではありません。武家の妻として当然のことをしたのです。赤子が必要以上に乳母に懐きすぎないように配慮したのです。
「いったい婦人というものは子を産むばかりの用にてその他のことは、男子にでき申さずと申すことはこれなく候。・・・詰まるところは婦人の用は子孫を広め候ばかりと察せられ候」
この文章は、第九代水戸藩主徳川斉昭公が後に書いた手紙の一節です。この文章を今日の女権運動家が読めば激怒するでしょうが、この時代にあってはごく穏当な考え方でした。二川屋の娘とて同じ時代感覚の中で生きていたのであり、男女平等思想を持っていたわけではありません。ただ、商家育ちのこの娘には武家の格式ばった生活ぶりがまったく肌に合いません。どうして母親がわが子を抱き続けていられないのか。娘は心中ひそかに実家に戻る決心をしました。決心が固まると、正妻に対する態度は以前にも増して従順になりました。
二川屋の娘が生んだ男児は量介と名づけられ、すくすくと育ちました。もはや母乳を与える必要がなくなった頃、二川屋の娘は身のまわりの品と共に忽然と青山家から姿を消しました。舟で那珂川をくだり、湊の実家に帰りました。まだ十九才でした。




