韓非子
文化文政期といえば町人文化の花が開いたにぎやかしい時代です。青山延于もときどき江戸出府の機会を得、そのたびに江戸の爛熟した空気を吸うことができました。湯屋でひどい目にあった延于も今ではすっかり慣れて、とおりいっぺんの遊びを覚えました。一方、田舎は田舎なりに水戸城下もにぎわっていました。藩士たちも気軽に芝居小屋を見物したし、浄瑠璃や長唄を習う者もいました。なかには相撲に凝り、本気で相撲取りになろうかと悩んでいる藩士もいたほどです。封建時代なりの自由な雰囲気が充溢していたのです。青山家にもおだやかな時間が流れていました。家計はあいかわらず苦しかったものの、四男二女に恵まれて、さらにはお塾の子供達もいて、だだっ広い青山家の武家屋敷がせまく感じるほどです。
享和三年、立原翠軒が彰考館を致仕しました。その理由は定かではありませんでしたが、藩主の不興を買ったのが原因だと噂されました。青山延于は、師の致仕を遺憾としつつも、川口長孺の斡旋によって徳川幕府成立史である「垂統大紀」の編纂という仕事が師に与えられたことを喜びました。
文化四年、藤田幽谷は彰考館総裁となりました。弱冠三十三才です。その才能が認められたといってよいでしょう。幽谷が総裁になると、大日本史の三大議に関しては藤田派の意見が通るようになりました。志表の部を中止するという翠軒の意見はくつがえされ、幽谷ら若手館員が志表の作業を継続することとなりました。なお、大日本史をめぐる翠軒と幽谷の対立は彰考館内に派閥を形成しましたが、あくまでも学派対立であり、決して血なまぐさい政争ではありませんでした。立原翠軒は文政六年三月に亡くなりますが、死の床に息子の杏所を呼び、次のように言い残しました。
「幽谷はわが藩随一の人物だ。自分は絶対に許すわけにいかないが、お前の代になったらいっさいを水に流すがよい」
延于と幽谷の一言居士ぶりは、およそ千人の水戸藩士のなかでも抜きん出ていました。
延于は、江戸出府の際、ある他藩の藩士から藩校の話を聞き、そのことが頭から離れなくなりました。自分なりに他藩の事情を調べ、水戸に帰ってから意見書にまとめて建言しました。熱中すると止まらない延于は、誰彼かまわず藩校構想を話し始めました。同僚にも上司にも繰り返し訴えます。構想そのものには誰も反対する者はいません。ただ、積極的な賛成論者も現われませんでした。
「そういわれれば、そうだね」
という返事にあきたらない延于は、さらに議論に熱中します。話を聞かされる方はたまりません。同じ内容を何度もくり返し聞かされ、しかも議論がいちいち長いのです。
「また青山か」
ついには露骨にイヤな顔をする同僚も出てきます。勘定奉行は決まり文句で延于に応じました。
「わが藩の藩庫のどこにそんな金がある」
短気な上司などは議論をやめさせるために怒鳴り声を上げました。
「青山、儒者は儒者らしく本を読んでおればよいのじゃ」
癇癪では延于も負けていません。声を励ましてさらに論じます。延于の不思議さは、賛同者が増えなくても、構想が実現しなくてもけっして落ち込まないことです。延于は議論が大好きなのです。論じている瞬間にこそ心の底から充実感が湧きました。議論の緊張感、訴えるべき事柄を当意即妙の言辞で言い得たときの快感、これが延于の悦楽です。議論の結果がどうあれ、議論し終えたときの満足感は何物にも代えがたいものでした。
すでに宝暦年間以来、各藩は藩校を開設し、子弟を教育して有為な人材を登用しようと努力しています。しかし、水戸藩においては延于の藩校構想は黙殺され、たち消えになりました。水戸藩が弘道館を開設するのは、これより二十年後、九代藩主斉昭公によってです。
藤田幽谷は延于の幾層倍も多忙です。彰考館総裁として大日本史の志表の部を完成させねばなりません。そして、あいかわらず藩政の諸問題を自分で見つけ出しては、例の大袈裟な言辞を振るい、その諾否を論じました。
その頃、第七代藩主治紀公は岡井蓮亭から韓非子の侍講を受けていました。岡井は高松藩出身の儒者で第六代治保公に見出されて彰考館員となっていました。岡井は治保公、治紀公、斉脩公の三代に仕えることになりますが、純朴寡欲な性格が愛され、側近として信任を得続けました。その岡井蓮亭は、すでに四書五経をひととおり修め終えていた治紀公に諸子を学ぶよう勧め、韓非子をみずから講じはじめていたのです。いうまでもなく韓非子は古代支那の代表的な法家で、性悪説による人間観から法による統治を説きました。秦の始皇帝はこの説を採用して天下統一を果たしたとされます。
その岡井蓮亭に藤田幽谷が噛みつきました。その理由は次のとおりです。韓非子は危書であり、悪謀、姦計、陰謀、謀略などが書かれている。読んだところで百害あって一利もない。三国志の時代、蜀の後主に諸葛孔明が韓非子を薦めたが、これは失敗であったとするのが歴史家の定説である。その韓非子を我が藩主に講じるとは、藩儒としての良識が疑われる。以上のように幽谷は論難したのです。
突然の非難にも岡井蓮亭は落ち着いて反論しました。延于や幽谷とは違い、岡井はもの静かな人物で、よほどのことがない限り口を開かないのです。そのため愚人のようにみえましたが、心中で熟考する人柄であり、ひとたび口をひらけば、その言説は核心を突いて逸れず、しかも懇切丁寧、わかりやすく大切なところをくり返し説きます。
岡井はついに反論しました。岡井は、諸葛孔明が正しかったとします。孔明の意図は、世の中には様々な悪事が存在するという現実を後主に知らしめ、さらにそれを見抜く眼力を身につけさせたかったのだとします。腹中に悪事の何たるかを諳んじていてこそ、他人の悪事を見抜き、しりぞけ、ひいては徳政を施すことができる。不幸にして、蜀の後主は暗愚であったため孔明の期待は外れましたが、これは孔明の不明ではなく、あくまで後主の資質に帰すべき問題であるというのです。
「藤田殿、暗愚な後主と我が藩侯様とを同一視するのは甚だ失礼ではあるまいか」
藤田と岡井は二日間にわたって議論しましたが、決着はつきません。論じ始めればこの二人の学識は無尽蔵で尽きることがありませんでした。治紀公は長男斉脩に相談しました。斉脩公は後の八代藩主です。病弱でしたが聡明な人物です。
「藤田幽谷は史館総裁となって日が浅く、功を焦っているのでございましょう。孔明ほどの人物が韓非子を採用した。その一事が大切でございます」
治紀公は岡井に韓非子の侍講を続けさせました。しばらくの後、治紀公は伺候してきた幽谷に声をかけました。
「その方の韓非子も聞いてみたいが、如何」
この問題はそれで片付きました。水戸にいた延于はこの話を伝え聞いて思いました。
(熊之介さんもあいかわらず忙しいことだ。総裁ともなれば、もっと落ち着けばよいものを)
自分のことを棚に上げて延于は幽谷を批判し、さらに想像しました。藤田と岡井の激論を、です。
(韓非子論か、是非やりたいものだ)
延于は、論戦したふたりがうらやましくてしかたがありません。




