第二章
翌朝。目を覚ました私は、しばらく天井を眺めていた。昨日のことが夢だったような気がした。けれど、夢ではない。
王宮で開かれた大夜会。大勢の貴族が見守る中、アレクシス様から婚約解消を告げられた。そして私は、それを受け入れた。
「……婚約者、いなくなったんだ」
声に出してみても、やっぱり実感が湧かなかった。ベッドから起き上がり、窓を開ける。朝の風が部屋の中へ入り込んできた。いつもと変わらない朝だった。鳥が鳴いている。庭師が庭の手入れをしている。使用人たちが忙しそうに行き来している。
世界は、昨日のことなど何もなかったように動いている。
「……そうよね」
婚約がなくなったからといって、朝が来なくなるわけではない。私は着替えを済ませ、食堂へ向かった。
*
「おはようございます、お父様、お母様」
「おはよう、我が愛しの娘よ!」
「おはよう、フィオナ」
食堂へ入ると、両親が揃っていた。父は新聞を読んでいる。母は紅茶を飲んでいた。
いつもと同じ光景。けれど私が席についた途端、二人の視線がこちらに集まった。
「……何でしょう?」
「フィオナ」
父が新聞を置く。
「昨日のことだが」
「はい」
「大丈夫か?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
即答すると、父は困ったような顔をした。
「……泣いてもいいんだぞ?」
「泣くようなことですか?」
「婚約者に婚約を解消されたんだぞ!?」
「はい」
「しかも公衆の面前で!」
「そうですね」
「もっとこう……悲しんだり、怒ったり……!」
「お父様」
「何だ?」
「朝ご飯を食べてもいいですか?」
「……」
父が黙った。母がくすくすと笑う。
「ふふ。あなた。フィオナは昔からそういう子でしょう?」
「そうだが……」
「感情がないわけではないのよ」
「分かっている」
「ただ、あなたほど大袈裟ではないだけ」
「私は大袈裟ではない!」
「まあ」
母が嬉しそうに微笑む。
「あなたったら。昨日も私が美しいと、何度おっしゃったかしら?」
「それは事実だ。何度だって言うさ」
「ほら」
「……」
私は静かにパンを切った。いつものやり取りが朝から始まった。
「お母様」
「何かしら?」
「私は、昨日のことで少し疲れているので……」
「ええ」
「できれば朝食くらいは静かに食べたいです」
「分かったわ」
「ありがとうござい――」
「あなた。今日は私の髪飾りを見てくれる?」
「もちろんだとも。君の美しさを引き立てるものなら、何だって――」
「……」
私は黙ってパンを口に入れた。やはりこうだ。この両親は、昔からこうなのだ。私が幼い頃からずっと。
父は母を褒める。母も父を褒める。そして二人はそれを恥ずかしげもなく互いに伝える。
仲が良いのは、本当に素晴らしいことだと思う。思うけれど。私は少々ハードルの高いことだ。
「それで、フィオナ」
母がこちらを見る。
「アレクシス様とは、どうして婚約を解消することになったの?」
「……私からの愛情が感じられなかったそうです」
母の手が止まった。
「まあ」
「そう言われました」
「あなたは、何て答えたの?」
「ただ…承知しました、と」
「……」
両親が顔を見合わせる。私は首を傾げた。
「何かおかしいですか?」
「フィオナ」
母が静かに言う。
「あなたは、アレクシス様のことが好きではなかったの?」
「……」
その質問に、私は少しだけ考えた。好きか嫌いか。そう聞かれれば。好きだったし、一緒にいる時はドキドキもした。
アレクシス様から届く手紙は嬉しかったし、会える日も楽しみだった。花を贈られれば、綺麗だと思った。
二人きりで話している時間は、穏やかに時が進んでとても心地よかった。
でも。
「……よく分かりません」
そう答えた。母は少し驚いたようだった。
「分からない?」
「はい」
私は紅茶を一口飲む。
「少なくとも、私はアレクシス様が好きでした」
「……そう」
「でも、愛していると言われると、恥ずかしくなってしまって…」
「まあ……」
「人前で手を繋いだり、抱き締め合ったりするのも苦手でしたし」
母は黙って私を見つめた。父は難しい顔をしている。
「私は、そういうことを大勢の人に見せる必要があるとは思えなくて」
「……」
「二人きりでいるときにひっそりと恋を楽しめれば、それで十分だと思っていたんです」
自分で言ってみて、初めて気づいた。私はずっと、それでいいと思っていた。好きなら好き。大切なら大切。
わざわざ人に見せなくても、本人同士が分かっていればいい。
「……でも、アレクシス様には足りなかったんでしょうね」
そう言うと、母が何とも言えない顔をした。
「フィオナ」
「はい?」
「あなたは、本当に不器用ね」
「……そうでしょうか?」
「ええ」
母は微笑んだ。
「とてもあなたらしいわ」
*
朝食を終え、自室へ戻る。机の上には、昨日までと変わらないものが並んでいた。ペン、便箋、小物入れ。
そして、その隅に置かれた小さな花瓶。中には、昨日までもらったばかりの花が入っている。
私はそれを見つめた。
「……」
アレクシス様からもらった花。
『君に似合うと思って』そう言って渡された。
私は、いつもの通り『ありがとうございます』と答えた。
たったそれだけ。アレクシス様は笑っていたけれど。
今思えば、あのときも少し寂しそうだったような気がする。
「……」
私は花瓶を持ち上げた。捨てるべきなのだろうか。婚約はなくなり、もう彼の婚約者ではない。
なら、いつまでも彼からもらったものを飾っているのも変だろう。そう思って、花瓶を片付けようとする。
けれど。
「……まだ綺麗だし」
結局、元の場所に戻した。花は悪くない。捨てる理由もない。それだけだ。私は自分にそう言い聞かせる。
*
机の引き出しを開ける。そこには、何通もの手紙が入っている。封筒には、見慣れた筆跡。アレクシス様の手紙だった。私は一番上にあったものを手に取る。何気なく封筒を撫でてから、気づく。
「……」
私は、何をしているのだろう。婚約者ではなくなったのだから、もうこれは必要ない。そう思って、引き出しから全部出そうとする。けれど、結局そのままにした。
捨てる気にはならなかった。それだけだった。
*
昼過ぎ。私は庭へ出た。
昨日までなら、午後はアレクシス様から届いた手紙を読んだり、次に会う予定を確認したりしていた。
けれど、もうその必要はない。
「……暇になったなあ」
庭を歩きながら呟く。婚約者がいなくなった。すると、こんなにも予定が減るものなのか。
私はふと立ち止まる。考えてみれば、私の人生はずっと「貴族令嬢」として決められていた。婚約者に恥をかかせないように。将来の公爵夫人として相応しく。社交界で失礼のないように。
礼儀作法。ダンス。刺繍。音楽。社交。もちろん全部必要なことだ。
けれど。
「……私、何がしたいんだろう」
今まで、そんなことを真剣に考えたことはなかった。結婚したら、公爵家へ嫁ぐ。それが当たり前だと思っていたから。でも、その道がなくなった。
だったら。これからは自分で決めてもいい。
「仕事……」
昨日、馬車の中で考えたことを思い出す。私は本当に働けるだろうか。貴族令嬢が店で働くなんて、普通ならあり得ないことだ。
でも、興味はある。街へ行けば、たくさんの店がある。
服屋。雑貨屋。本屋。菓子店。
人々が働いている。
私もああいう場所で働いてみたら、どんな感じなのだろう。
「……楽しそう」
自然と口元が緩んだ。そのときだった。
「フィオナお嬢様」
後ろから侍女の声がした。
「はい?」
「旦那様がお呼びです」
「分かりました」
私は屋敷へ戻った。
*
「仕事をしたい?」
父が目を丸くした。
「はい」
「なぜ?」
「婚約がなくなったので」
「それは理由になっていない気がするが……」
「時間がありますから」
「うーん……」
父は腕を組んだ。隣に座っていた母は、楽しそうに私を見る。
「私はいいと思うわ」
「お前は簡単に言うなあ」
「だって、フィオナがやりたいと言っているのよ?」
「しかし貴族令嬢が働くとなると……」
「だったら、まずは見てみればいいでしょう?」
「見てみる?」
「ええ」
母は私に微笑んだ。
「実際に街へ行って、お店を見てみましょう。働けそうなところがあるかもしれないわ」
「本当ですか?」
「もちろん」
父がため息をつく。
「……分かった。ただし、身の安全には十分気をつけること。見えないように護衛は付けるからな」
「ありがとうございます、お父様」
「それと――」
「はい?」
「アレクシス殿が何か言ってきたら……」
「大丈夫です」
私は答えた。
「もう婚約者ではありませんから」
父が黙った。母も黙る。私は不思議に思って二人を見る。
「……何でしょう?」
「いや」
父が小さく首を振った。
「何でもない」
*
その日の夜。私は机に向かっていた。新しい生活について考える。街へ行くなら、まず何をするか。仕事を探すなら、どんな店がいいか。服装は。必要なものは。
そんなことを考えているうちに、ふと机の端に目がいった。そこには、アレクシス様からもらった小さな髪飾りが置かれていた。
以前、二人で街へ出かけたときに贈ってくれたものだ。
『君には、こういう色が似合うと思った』
そう言って。私はそれを手に取った。
銀細工の小さな花。彼の瞳のを思わせる小さな宝石がキラリと輝く。派手ではない。
でも、とても綺麗だった。
「……」
私はしばらく眺めた。そして、小さく息を吐く。
「……明日からは、ちゃんと片付けないと」
そう呟いて。私はそれを箱に戻した。けれど、その箱を捨てることはできなかった。だから、机の一番下の引き出しへしまった。見えないところへ。大切に。それでいい。
私はそう思った。だって婚約は終わったのだ。だったら、私も前へ進まなければならない。
明日から、新しい生活が始まる。もう誰かの婚約者ではない。誰かの理想の令嬢でいる必要もない。私は私の好きなように生きてみよう。
「……さて」
私は立ち上がった。
「明日は街へ行ってみよう」
その頃。王都の別の場所では。
私との婚約を解消したばかりの男が、眠れない夜を過ごしていたことを――。
私はまだ知らなかった。
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