第三章
翌日。フィオナは朝から街へ出ていた。一昨日までなら、こんな時間に屋敷を出ることなどなかった。
婚約者との予定が入っていれば、ドレスを選び、髪を整え、贈られた花を眺めながら手紙を読み返す。
そして、アレクシスとの約束の時間になれば、彼の元へ向かう。それが、これまでのフィオナの日常だった。
けれど――。
「……今日は、何をしようかしら」
馬車の窓から街を眺めながら、フィオナは小さく呟いた。婚約者はいない。予定もない。誰かに会う必要もない。
つまり。自由である。
「……自由って、こんなに予定がないものなのね」
思わず苦笑する。一昨日まで、自由になりたいと思っていたわけではない。ただ、もう少しだけ自分の時間が欲しかった。誰にも急かされず、好きな本を読んだり。庭を散歩したり。街へ出かけたり。
そういうことを、もっとしてみたかった。けれど婚約者がいる以上、当然ながら予定はある。
アレクシスはとても真面目な人だった。約束をすれば必ず守る。手紙を送れば、必ず返事をくれる。会えば必ず花を贈ってくれる。そして、会うたびに。
『今日も大輪の花のように綺麗だ』
『僕のエメラルド。君に会えるのを心から楽しみにしていたよ』
『何よりも、誰よりも、愛しているよフィオナ』
そう言ってくれる。それは嫌ではなかった。むしろ――嬉しかった。ただ、同じようには返してあげられなかった。
「……今さら考えても仕方ないわね」
フィオナは小さく首を振った。一昨日、婚約は解消された。それがすべてだ。ならば、これからは自分の人生を考えればいい。社交界はしばらく騒がしいだろう。一旦離れるべきだ。
そのためにはまずは仕事。
一昨日なんとなく思いついたばかりだけれど、仕事をしてみるのも悪くない。
貴族令嬢が働くことはまずない。けれど、絶対にあり得ないというわけでもない。
特に、家を継ぐ必要のない令嬢なら、慈善事業や商会の手伝いなどをする者もいる。
フィオナが興味を持っているのは、街の小さな店だった。
貴族街ではなく、少し離れた場所にある商店街。以前、母と一緒に訪れたことがある。色とりどりの商品が並び、店員たちが忙しそうに働いていた。貴族街のような静けさはないが活気に満ち溢れるあの場所。
あの場所なら。自分も何かできるかもしれない。そう思った。馬車を降りる。フィオナは周囲を見回した。
「……思ったより、人が多いわ」
休日でもないのに、街は賑わっている。
商人が声を上げ、荷馬車が行き交い、店先にはたくさんの商品が並んでいる。
貴族街とはまるで違う。けれど、不思議と居心地がよかった。誰もフィオナを見ていない。誰も彼女の婚約について知らない。
誰も彼女に『もう少しアレクシス様に愛情を示しては?』なんて言わない。
「……楽だわ」
そのことに気づいて、フィオナは少しだけ驚いた。
昨日、婚約を解消した直後は、悲しいというより混乱していた。
けれど今になってみると。肩の力が抜けている。それは、アレクシスが嫌いだったからではない。彼と一緒にいることが嫌だったわけでもない。
ただ――。自分らしくいられる時間が、少し増えた気がした。
「さて……」
フィオナは商店街を歩き始めた。いくつかの店を見て回る。
菓子店。服飾店。雑貨店。花屋。
その中で、一軒の小さな雑貨店の前で足を止めた。店内には髪飾りや小物、便箋などが並んでいる。窓越しに店員の女性が忙しそうに商品を整理していた。
「……ここ、いいかもしれない」
フィオナは店の扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
「あの……少しお伺いしたいことがあるのですが」
「はい?」
店員の女性が振り返る。
フィオナは少し緊張しながら口を開いた。
「こちらで、働かせていただくことは可能でしょうか」
「え?」
女性の目が丸くなる。フィオナも少しだけ身構えた。やはり、貴族令嬢が突然そんなことを言えば驚かれるだろう。
けれど女性はすぐに笑った。
「もちろん、働いてくださる方がいるなら助かりますけど……お嬢様、貴族の方ですよね?」
「はい」
「どうしてまた……?」
「……暇になりまして」
「暇」
「はい。それもすごく暇に」
あまりにも正直な答えだった。女性は一瞬ぽかんとしたあと、吹き出した。
「ふふっ。そんな理由で働きに来る貴族のお嬢様、初めて見ました」
「私も初めてです」
「そこは否定しないんですね」
店内に小さな笑い声が響いた。フィオナもつられて笑った。なんだか、久しぶりに自然に笑った気がする。
それから店主と簡単に話をした。仕事内容は商品の整理、接客、簡単な帳簿の手伝い。最初は短時間からでもいいと言ってくれた。
「明日からでも来ていただいて構いませんよ」
「本当ですか?」
「ええ。むしろ助かります」
「ありがとうございます」
フィオナは頭を下げた。
帰り道。胸の奥が少しだけ軽かった。
「仕事、決まっちゃった……」
思わず呟く。
一昨日までは普通の貴族令嬢だったのに、今日は仕事が決まった。人生とは、案外あっさり変わるものらしい。
そしてその頃。
王都の別の場所では。
「……」
アレクシス・フォン・ヴァレンティアは、机の上に置かれた一枚の紙を見つめていた。
一昨日フィオナとの婚約を解消した。自分から申し出た。それなのだから、これでいい。そう思っていた。
彼女から愛情を感じられない。何度もそう思った。
花を贈っても。手紙を書いても。愛していると伝えても。
彼女はいつも『ありがとうございます』と微笑むだけだった。
人前では手を繋ぐことすら躊躇う。自分から触れようとしても、周囲を気にして離れていく。
だから。きっと彼女は自分を愛していない。そう思った。
だからあの場で婚約解消を申し出た。
――なのに。
「……」
アレクシスは時計を見た。午前十時。何もない。
午前十一時。何もない。
正午。何もない。
午後一時。何もない。
「……」
彼は机の上に置かれた手紙を見た。白い便箋。
一昨日までなら、フィオナから返事が届くこともあった。もちろん彼女からの手紙は、自分が送ったものよりずっと短い。
『先日はありがとうございました』
『お花、とても綺麗でした』
『次にお会いできるのを楽しみにしています』
そんな内容ばかりだった。それでも。返事が来ることが嬉しかった。だが、今日は来ない。当然だ。婚約を解消したのだから。
それなのに。
「……一通くらい来てもいいのではないか」
口から出た言葉に、自分自身で驚いた。何を期待しているのだ。自分から婚約を解消したというのに。アレクシスは深く息を吐いた。
「……いや」
昨日の彼女の反応を思い出す。
『……承知しました』
あまりにも静かな声だった。
泣かなかった。怒らなかった。引き止めなかった。
そして。
『今までありがとうございました』
そう言って頭を下げた。その姿が、何度も頭に浮かぶ。
「……どうして」
アレクシスは眉を寄せた。どうして何も言わなかった。どうして…少しくらい……『嫌です』と言ってくれなかったのか。
少しくらい『私はあなたを愛しています』と言ってくれてもよかったではないか。
自分は、それを聞きたかった。だから婚約を解消した。彼女の本当の気持ちを確かめたかった。
けれど彼女は何も言わなかった。
――つまり。
「……本当に、私のことを好きではなかったのか」
呟いた瞬間。胸の奥がずきりと痛んだ。自分で選んだ結末なのにどうしてこんなにも苦しいのだろう。
「アレクシス様」
控えていた侍従が声をかける。
「何だ」
「本日の午後ですが、以前フィオナ様とご一緒される予定だった茶会が――」
「……」
アレクシスの顔が固まった。
「……そうだったな」
「はい」
婚約者だった頃に決めた予定も、もう必要ない。
「中止にしてくれ。先方には詫びの手紙を認める」
「承知しました」
侍従が一礼する。それで終わるはずだった。
なのに。
「……待て」
「はい?」
「その茶会には、フィオナも来る予定だったよな?」
「え?…はい、もちろんでございます」
「……そうか」
アレクシスは黙り込んだ。もう会う必要はない。婚約者ではないのだから。
けれど。
「……」
なぜか、会いたいと思った。そして、その感情に気づいた瞬間。アレクシスは自分自身に呆れた。
「私は……何をしているんだ」
婚約を解消したのは自分だ。それなのに彼女が何をしているのか気になる。誰と会っているのか気になる。
自分のことをどう思っているのか知りたい。そして、できれば……少しくらい悲しんでいてほしい。
そんな自分勝手なことまで考えてしまう。
「……最低だな、私は」
その日の午後。アレクシスの元へ、一通の報告が届いた。
「フィオナが……?」
「はい」
侍従が少し困ったように答える。
「本日、街へ出られたようです」
「……街へ?」
「はい。それから、とある雑貨店で仕事の相談をされたとか」
「……仕事?」
アレクシスは目を瞬いた。
「どうやら明日から働かれる予定だそうです」
「……」
しばらく沈黙が続いた。そして。
「……もう立ち直ったのか」
ぽつりと呟く。その声には、明らかに落胆が混じっていた。
侍従は何も言わなかった。ただ、心の中で思った。
――婚約を解消したのは、あなた様ですよ。
もちろん口には出さない。
「……フィオナ」
アレクシスは窓の外を見つめた。自分の婚約者だった女性。今はもう自分とは何の関係もない女性。
そう思うと胸が妙に落ち着かなかった。
一方、その頃のフィオナはというと。
「明日は何を着ていこうかしら」
屋敷の自室で、仕事用の服を選んでいた。前までならアレクシスとの予定に合わせてドレスを選んでいた時間だ。
けれど今日は動きやすい服を探している。
「これならいいかしら」
鏡の前でワンピースを一着を合わせてみる。少し地味かもしれない。でも、仕事をするならこのくらいがいいだろう。
フィオナは満足そうに頷いた。
「楽しみだわ」
そして、ふと。
部屋の隅に置かれた花瓶を見る。そこには、アレクシスからもらった花が飾られていた。まだ少しだけ綺麗に咲いている。フィオナは近づいて、花びらをそっと撫でた。
「……綺麗」
それだけ言って。フィオナは明日の準備を始めた。
婚約者を失った少女は思っていたよりもずっと穏やかに新しい生活を始めようとしていた。
そして婚約者を手放した青年は。 思っていたよりもずっと早くそのことを後悔し始めていた。
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