第一章
元サヤものです
この国は愛と豊穣の女神信仰が広く信仰されている。
『惜しみなく愛を与える者には、豊穣がもたらされる』という教えがあり、愛情や行動、態度で示すことが美徳とされているのだ。
特に貴族社会ではその考え方が尊重されている。
だからなのだろうか。その日、私は婚約者から婚約解消を申し出られた。
場所は王都の中央にある王宮。
年に一度開かれる、国王陛下主催の大夜会だった。
大広間には数え切れないほどの貴族が集まり、天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、磨き上げられた床をまばゆいほどに照らしている。
楽団の奏でる音楽。色とりどりのドレス。宝石の輝き。あちらこちらから聞こえる楽しげな笑い声。
まさに、貴族社会の華やかさを集めたような夜だった。私はその中で、隣に立つ婚約者の姿を見上げていた。
アレクシス・フォン・ヴァレンティア。
ヴァレンティア公爵家の嫡男。整った顔立ちに、濃い金髪。その立ち姿には隙がなく、何をしていても自然と人の目を引く。私とは違い、こういう場所がよく似合う人だった。
「フィオナ」
「はい?」
「少し疲れたか?」
そう言って、アレクシス様が私の顔を覗き込む。
「いえ。大丈夫です」
「そうか」
アレクシス様は安心したように微笑んだ。そして、私の髪に視線を向ける。
「今日も綺麗だな」
「……ありがとうございます」
私は小さく頭を下げた。いつものことだった。アレクシス様は、よく私を褒める。今日のドレスが似合っている。髪飾りが綺麗だ。今日の君はいつもより美しい。
会うたびに、何かしらの言葉をくれる。
私は、そのたびにどう返せばいいのか分からなくなっていた。
「君は、本当にその返事しかしないな」
「……?」
「いや」
アレクシス様は笑った。けれど、その笑顔はほんの少しだけ寂しそうだった。
私は首を傾げる。何か変なことを言っただろうか。考えてみても、思い当たることはなかった。
アレクシス様は私をエスコートし、壁際の席へと案内してくれる。
そこに座ると、すぐに給仕がスパークリングワインを用意してくれた。
「ありがとう」
グラスを手に取り、私は小さく息を吐く。ようやく少し落ち着いた。
こういう華やかな場所は、どうにも苦手だ。嫌いというわけではない。ただ、どうしても疲れる。
特に――。
「フィオナ」
「はい」
「手を」
差し出された手を見る。
「……」
その手を取る。別に嫌ではない。嫌ではないのだけれど。周囲にはたくさんの人がいる。
私たちの姿を見ている人もいる。それがどうにも落ち着かなかった。
私はそっと周囲を見回した。すると、少し離れたところにいた令嬢と目が合った。彼女は私を見るなり、隣の友人に何かを囁く。
二人でこちらを見て、くすくすと笑う。たぶん、気にするほどのことではない。
けれど私は、反射的にアレクシス様の手から自分の手を少しだけ引いた。
アレクシス様の指が、ほんの一瞬止まる。
「……」
「あ……」
しまった。
私は慌てて言った。
「すみません。少し、人目が……」
「……そうか」
アレクシス様は手を離した。その顔から笑みが消えていた。
「アレクシス様?」
「いや。何でもない」
それだけ言うと、彼は正面を向いた。私はその横顔を見つめる。
何か怒らせてしまったのだろうか。でも、何を怒ることがあるのだろう。
私はただ、人前で手を繋ぐのが恥ずかしいだけなのに。
――私にとっては、それだけだった。
*
私の両親は、とても仲が良い。それはもう、娘の私が若干引いてしまうくらいに。
『愛しい君。今日も世界で一番美しいね』
『まあ、あなたこそ私の人生そのものですわ』
幼い頃から、そんな会話を何度聞いたことだろう。
父が母の頬にキスをする。母が父の腕に抱きつく。食事中ですら、二人はお互いを褒め合っている。仲が悪いよりはずっといい。両親が互いを大切にしていることも分かっている。だから私は、愛というものを嫌っているわけではない。むしろ、素敵なものだと思う。
ただ。私はああいうのは苦手だ。昔から、ずっとそう思っていた。人前で堂々と愛を語る。相手のことを褒める。手を繋ぐ。抱きしめる。そして、それを周囲にも見せる。
想像するだけで顔が熱くなる。だから私は、アレクシス様と二人きりのときには、それなりに頑張っていた。
会えれば嬉しいと伝えた。いただいた花は大切に飾った。手紙も何度も読み返した。
帰る時間が近づけば、もう少し一緒にいたいと思った。
それでも人前では、どうしてもできなかった。
私にとって愛情は、静かなものだったから。
わざわざ大勢の人に見せる必要なんてない。好きな人と二人きりで、ゆっくり話して。隣にいて。たまに手を繋いで。それだけで十分だと思っていた。アレクシス様も穏やかに笑っていた。
だから――。
このときの私は、アレクシス様も同じように考えているのだと思っていた。
*
夜会が始まってから、二時間ほど経った頃だった。
アレクシス様が突然、私に声をかけた。
「フィオナ」
「はい?」
「少し、話したいことがある」
「……今ですか?」
「ああ」
その声音は、いつもと違った。私は立ち上がる。
アレクシス様に連れられて、大広間の中央へと歩いていく。
「どこへ……?」
そう尋ねても、アレクシス様は答えなかった。やがて、周囲の人々が私たちに気づき始める。音楽が止まったわけではない。けれど、少しずつざわめきが大きくなっていく。
公爵家の嫡男と伯爵令嬢。王宮の大夜会で、二人が中央に立っている。
それだけで、何かあると思われるのは当然だった。
「アレクシス様……?」
もう一度声をかける。すると彼は私の前に立った。
そして――。
「フィオナ・ルヴェール嬢」
改まった声で、私の名を呼んだ。周囲が静かになる。私は不安になって、アレクシス様を見上げた。
その顔には、いつもの穏やかな笑みがなかった。
「私は――君との婚約を解消したい」
「……え?」
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
婚約。
解消。
その二つの言葉だけが、頭の中をぐるぐると回る。
「……婚約を?」
「ああ」
「私と、アレクシス様の?」
「そうだ」
「……」
周囲の視線が、一斉にこちらへ向いている。聞き間違いではないらしい。
けれど、どうして。ついさっきまで普通に話していた。手を差し出してくれた。今日も綺麗だと言ってくれた。
それなのに。
「理由を……伺っても?」
やっとのことで、それだけを口にした。アレクシス様は苦しそうに眉を寄せた。
「君から、私への愛情を感じられない」
「……」
「私は君を愛している」
その言葉に、胸が詰まる。
「何度も伝えたつもりだ」
「……はい」
「花も贈った。手紙も書いた。君に会える日は、できる限り時間を作った」
「……はい」
「だが、君はいつも『ありがとうございます』と言うだけだ」
私は黙った。
「私が君を愛していると言っても、君は同じ言葉を返してくれない」
「……」
「人前では、私と距離を取る」
さっきのことだ。
「他の者たちが婚約者に向けるような愛情を、君から感じることができなかった」
「……」
「私は……ずっと不安だった」
アレクシス様の声が、少しだけ震えた。
「君に愛されているのか分からないまま、君と結婚することが怖くなった」
私は彼を見つめた。ようやく分かった。
アレクシス様は、ずっと不安だったのだ。私が彼を好きなのか。それが分からなかった。
――でも、私は。私なりには、ちゃんと。
そこまで考えたところで、私は口を閉じた。周囲には大勢の人がいる。
喉まで出かかった言葉を、飲み込む。
アレクシス様は私の返事を待っている。私は少しだけ俯いた。
「……そうですか」
「フィオナ……」
「承知しました」
「……」
アレクシス様の顔が、わずかに強張った。
「それだけ……なのか?」
「はい?」
「いや……」
彼は苦しそうに目を伏せた。
「……何でもない」
その声を聞いて、胸の奥が少しだけ痛んだ。でも、何を言えばいいのか分からない。婚約を解消すると言われて、『嫌です』と泣きつくのも違う気がする。
『私も愛しています!』と大勢の前で叫ぶ意気地もない。できない。だから私は、ただ一礼した。
「今まで、ありがとうございました。アレクシス様」
その瞬間。アレクシス様の目が、ひどく寂しそうに揺れた。
けれど私は、その理由が分からなかった。
*
帰りの馬車の中。私は窓の外を眺めていた。王宮の明かりが、少しずつ遠ざかっていく。
婚約がなくなった。今日まで、ずっと私の隣にいた人が明日からは、もう婚約者ではない。そう考えると、不思議な気持ちになった。
「……婚約者、いなくなっちゃったな」
ぽつりと呟く。悲しいのか。寂しいのか。
それとも、ほっとしているのか。自分でもよく分からない。私なりに彼を好きだった。しかしもう取り返しのつかない話だ。
ただ、一つだけ思った。
もう、人前でどう振る舞うべきか悩まなくてもいい。
手を繋がなければいけないときに、周囲を気にしなくてもいい。
愛していると言われたとき、同じように返せないことを悩まなくてもいい。
そう思ったら少しだけ肩の力が抜けた。
「……私、貴族令嬢に向いていないのかもしれない」
窓に映った自分の顔を見る。華やかなドレス。宝石。綺麗に結い上げられた髪。どれも私には少しだけ窮屈だった。
だったら、これからは自分の好きなように生きてみてもいいのではないだろうか。
婚約者がいなくなったのなら。
私は、もう誰かの理想の婚約者でいる必要はない。
「……仕事でも、してみようかな」
ふと、そんな考えが浮かんだ。
なにか、販売員とか。お店で人と話して。自分で働いて。自分で好きなものを買って。
そんな生活も、案外悪くないかもしれない。
私は小さく笑った。
「うん。そうしよう」
そのときの私はまだ知らなかった。
公衆の面前で私との婚約を解消したその人が後になって誰よりも必死に、私を追いかけてくることになるなんて。
そして――。
今日の私の「ありがとうございました」が彼をどれほど傷つけていたということも。
→




