黒紅の暴威
大講堂の空気が一変した。
溶け崩れた演壇の瓦礫から立ち上がったヴァルガの全身を、先ほどとは比べ物にならないほど高密度な黒紅の獄炎が包み込んでいる。
大気中の水分が一瞬で干上がり、吸い込む空気そのものが喉を焼くように熱い。
「魔力を持たねぇ小娘が、道具の細工だけで俺の獄炎を弾き、衝撃を叩き込んできやがった。……テメエ、何者だ?」
ヴァルガがゆっくりと足を踏み出すたび、大理石の床が赤熱し、足跡の形にドロドロと融解していく。
男の纏う炎は、単なる火炎魔術の域を完全に逸脱していた。体内の魔力を極限まで圧縮・励起させ、物理的な質量と熱量を併せ持たせた、触れるものすべてを炭化させる破壊の衣。
「ただの研究者ですよ。もっとも、あなたのような筋肉偏重の野蛮人には、理論の美しさなど理解できないでしょうが」
私は白衣の内ポケットから二本の銀色のアンプルを抜き出し、指の間に挟み込んだ。
――熱量が桁違いだ。
推定温度は二千度を優に超えている。生半可な防御術式では、接触した瞬間に障壁を構成するエーテルごと焼き溶かされる。
「講釈は終わりだァッ!!」
――ガァァァンッ!!
大気が爆縮するような轟音と共に、ヴァルガの姿が視界から完全に掻き消えた。
速い。直線的な突進ではない。ホールの壁、半壊した大理石の円柱、崩れ落ちた天井の梁を足場にして、超高熱の軌跡を描きながら不規則に跳躍し、全方位から間合いを一気にゼロにしてくる。
「死角から抉る――『獄炎連脚』ァッ!!」
頭上、真横、背後。
視認不可能な超高速で繰り出される、溶岩のごとき連続蹴りと拳打の嵐。
講堂全体が、まるで巨大な火炎放射器の内部へと変貌したかのようだった。
「空間よ、熱を奪いて凍てつけ――ッ!」
私は銀のアンプルを二本同時に親指で弾き割り、青白い幾何学陣を多層構造で展開した。
絶対零度の断熱境界。
だが――
――バギィィィンッ! ドガァッ!!
「くっ……!?」
幾重にも重ねた断熱層が、ヴァルガの獄炎の圧倒的な熱量と質量に押し負け、わずか数合でガラスのように粉々に砕け散っていった。
冷気によるエネルギー吸収の許容量を、男の暴力的な出力が強引に上回ったのだ。
障壁の破片と共に熱波が吹き荒れ、私の白衣の裾が焦げた臭いを放ちながら、身体が後方へと吹き飛ばされる。
「カッカッカッ! どうしたァッ! さっきまでの減らず口はどうしたよォッ!!」
ヴァルガの追撃は苛烈を極めた。
一撃防ぐごとに、衝撃波が大講堂の石畳をめくり上げ、逃げ場を塞ぐように猛烈な連撃が叩き込まれる。
私は腕の魔導具で偏向結界を極小展開し、打撃の芯をわずかに逸らすのが精一杯だった。
――ガギィン! ドスッ!
受け流すたびに、骨が軋むほどの重圧と焦熱が皮膚を焼く。
「エルカ様ぁぁっ!!」
遠くの瓦礫の陰から、クラリスの悲痛な悲鳴が響く。
息が上がり、手足の皮膚が熱波でジリジリと焼けていく。
魔力を持たない私の生身の肉体にとって、この男の放つ熱量はそれだけで致命的な猛毒だ。正面から力比べを続ければ、間違いなく数手で押し潰される。
(……ですが、どれほど圧倒的な暴力だろうと、物理法則と魔術の循環原理から外れることはできない)
防戦一方に追い込まれ、猛攻を凌ぐのに忙殺されながらも、私の頭脳は計算を止めていなかった。
メガネの奥の瞳が、ヴァルガの全身を巡る魔力の血流を克明に分析していく。
(……打撃速度、音速の一・二倍。接触面の瞬間温度、二千四百度。右足の踏み込みから左拳の射出まで〇・一八秒)
圧倒的な力押しに見えて、この男の動きには明確な「魔力の偏り」と「熱の滞留点」が存在する。
高密度の獄炎を維持するために、全身の筋肉へ送り込む魔力の血流に一定の脈動があるのだ。
(……見えました。全身の出力を右腕へ極大集中させた直後の〇・一八秒。左半身の魔力障壁に、修復不能な空白が生まれる)
「逃げ回るだけかよ、白衣のネズミがァッ!」
ヴァルガの全身の獄炎がさらに膨れ上がり、講堂の崩れた壁際へと私を完全に追い詰めた。
背後は瓦礫の山。左右の退路も黒紅の炎で塞がれている。
男の全身から噴き上がる獄炎が右腕へと一気に凝縮され、必滅の拳となって私の頭蓋めがけて振り抜かれた。
「これで終わりだァッ!!」
死の熱風が前髪を焼き焦がす寸前――私は口元に、冷徹な笑みを浮かべた。
(……計測完了。実験のデータは揃いましたよ)




