影爪のファルク
重厚な鉄扉が鈍い音を立てて閉ざされ、地下への退路が遮断される。
旧研究棟の中庭に残されたセリアとクロエを包み込んだのは、大気を凍りつかせるような濃度を増した紫黒の殺気だった。
「時間稼ぎのつもりか。……命の使い捨てとしては、ずいぶんと安っぽいな」
細身の男が、両手に握った歪な曲刀の切先を静かに地面へ向けた。
足音も衣擦れの音すら立てず、地面の影と同化するように滑らかに間合いを詰めてくる。
「俺は『喰罪』の執行者、『影爪』のファルク。……安心しろ。公爵家の首など、傷物にしては価値が下がる。苦しませずに一瞬で落としてやる」
「……あら。あたくしの首に値をつけるなんて、随分と身の程知らずな物言いですこと」
セリアは凛とした笑みを張り付け、優雅に魔術杖を胸元で構えた。
だが、その指先はわずかに強張り、制服の背中は冷や汗で濡れていた。
相手との間合いはおよそ十五メートル。にもかかわらず、すでに首筋へ冷たい鋼を押し当てられているかのような錯覚に襲われる。
「クロエさん、呼吸を整えなさい。エルカ様の教え通り、魔力流の乱れを抑えるのです」
「は、はいっ……! 魔力循環、維持して……ます……!」
クロエが青ざめた顔で杖を構え直した――その刹那。
ファルクの姿が、完全に視界から掻き消えた。
「――ッ!? 消え……!?」
「クロエさん、上ですわ!」
セリアの鋭い叫びと同時に、頭上の暗がりから漆黒の斬撃が二条、閃光のように降り注いだ。
「風よ、拒絶の盾を紡げ――ッ!」
セリアが咄嗟に展開した圧縮空気の障壁が、ファルクの双剣と激突する。
だが、甲高い金属音は響かなかった。
ファルクの刃は風の障壁に触れた瞬間、液体のように輪郭を崩し、魔力障壁の隙間をすり抜けてセリアの肩口へ吸い込まれた。
「なっ……!?」
――ザシュッ!
「くぅっ……!」
「魔力で編んだ盾など、影の刃の前には障子紙同然だ」
「セリアさんっ! 水よ、螺旋を成して穿て――ッ!!」
クロエが悲鳴混じりに放った高圧水流の槍が、ファルクの側頭部へ一直線に肉薄する。
だがファルクは視線すら向けず、背後の影の中へ沈み込むように身を捻り、紙一重で水流をすり抜けた。
貫通砲は背後の巨木を粉砕し、轟音と共に吹き飛ばすだけに終わる。
「……高圧の収束水流か。威嚇としては悪くないが、当たらなければただの打ち水だ」
中庭の敷石の影から、再び音もなくファルクが実体化する。
セリアは肩の制服を切り裂かれ、滲み出た鮮血を抑えながら必死に間合いを取った。
「セリアさん、血が……!」
「わき見を禁じます! 動揺すれば術式が崩れますわ!」
セリアは激しい呼気の中で、エルカの言葉を必死に反芻していた。
――『敵の術式を観察しなさい。魔術は現象であり、現象には必ず物理法則とトリガーが存在します』
(影と同化して移動し、障壁の魔力配列を無視して侵入してくる……。ですが、完全に影そのものになっている間は攻撃ができないはず。実体化して刃を振るう一瞬だけは、必ず物理的な質量と座標を持っている……!)
だが、分かったところで相手の初速は人間業ではない。
思考が追いついても、体が反応できないのだ。
「もう終わりか? 学生の児戯に付き合う時間も惜しい」
ファルクが冷徹に呟いた瞬間、中庭の地面に落ちる樹木の影が一斉に蠢き始めた。
地面から無数の黒い爪のような刃が何十本も立ち上がり、全方位から二人の退路を完全に塞ぐ。
「影爪檻」
「クロエさん、跳んで――ッ!」
セリアが足元に突風を放ち、クロエを突き飛ばしながら自身も横へ転がる。
直後、二人が立っていた地面を黒い刃の群れが串刺しにし、敷石を容易く抉り取った。
「きゃあぁっ!」
吹き飛ばされたクロエが背中を石柱に打ち付け、杖を取り落として激痛に顔を歪める。
「クロエさん……!」
「どこを見ている?」
背後から響く、冷酷な囁き。
セリアが振り返った瞬間には、ファルクの曲刀が眼前に迫っていた。
「しまっ――」
――ガキィィィンッ!
セリアは咄嗟に魔術杖の金属装飾を交差させて受け止めたが、暗殺者の放つ凄まじい膂力と魔力に圧され、手首が悲鳴を上げる。
「くっ……あぁぁぁっ!」
「刃を受け止めた度胸は認める。だが――力比べで俺に勝てると思ったか?」
ファルクのもう一本の曲刀が、無防備なセリアの脇腹へ音もなく突き出された。
死の切先がドレスを切り裂き、肌に冷たい刃先が触れる。
「セリアさぁぁぁんっ!!」
クロエの絶叫が響く中、セリアの瞳に宿る光は、まだ消えていなかった。




