黒い滓の盃
訓練広場に漂っていた穏やかな水煙が、唐突に掻き消えた。
――ズゥゥゥン……ッ!
大気を引き裂くような重低音が響き渡り、旧研究棟を囲む木々が一斉に激しく軋む。
見上げれば、頭上の青空が中央から引き裂かれるように黒く染まり、ドーム状の漆黒の結界が急速に学園全域を覆い尽くしていった。
「な、なんですの……!? 空が……!」
セリアが扇子を握り直し、息を呑む。
クロエは「ひゃぅっ……!」と身を縮め、シズクは瞬時にクラリスの前に立ちはだかって星銀鋼の刀の柄に手をかけた。
「結界の波長解析、完了。……古代遺物『位相遮断球』による空間隔離です」
私は白衣のポケットから手のひらサイズのエーテル計測器を取り出し、液晶に走る数値を目で追った。
「学園全域が外部から完全に切り離されました。転移魔術、遠隔通信のすべてが遮断されています。……王都の近衛騎士団がこの異変を察知し、外部から結界を物理破壊して突入してくるまで、最短でも二時間といったところですね」
「二時間……!?」
クラリスが青ざめ、胸元のペンダントをぎゅっと握りしめる。
「ええ。つまり敵の狙いは明確です。騎士団が到着するまでの二時間以内に、学園を制圧し、クラリス殿下の首を獲ること」
私が冷徹に告げたその時、学園の中央広場方面から、耳をつんざくような爆発音が轟いた。
――ドガァァァンッ!
立ち上る黒煙と火柱。
同時に、学園の非常警報の鐘が乱打され、拡声魔導具を通した怒号が響き渡る。
『全生徒に告ぐ! 本館大講堂へ避難せよ! 侵入者多数! 教師陣および警備隊は直ちに迎撃態勢を――』
アナウンスは、不気味な破砕音と共にぷつりと途絶えた。
「本館が急襲されていますわ……! ユリウス様たちが危ないのではなくて!?」
「……落ち着きなさい、セリア。敵の主力は本館――だが、ここにもすでに仕掛けられています」
私の言葉と同時に、中庭の木立の奥から、静まり返った森を押し潰すような重圧が迫ってきた。
現れたのは、全身を黒銀の重装甲で固め、禍々しい古代文字が刻まれた大剣を携えた大躯の偉丈夫。
その歩行には一切の無駄がなく、呼吸音すら周囲の気配と完全に同調している。
そしてその背後、陽炎のように空間を歪ませながら、二振りの異形短剣を静かに構えた細身の男が滑り出た。
二人の胸当てに深く刻印された、歪んだ盃へ黒い滓が注がれるような禍々しい紋章。
「あの紋章……黒い滓の盃……! 貴族院の暗部が抱える特務執行組織『喰罪』……!」
セリアが息を呑み、扇子を持つ手を強張らせる。
「……王女クラリスの身柄確保、あるいはその場での処断。これが我らに下された任務だ」
重装甲の男が、兜の奥から地響きのような硬質な声を響かせた。
一切の驕りも油断もなく、ただ淡々と、確実に標的を仕留めるための冷徹な眼光。
「頭領が本館の制圧を完了させる前に、この場を平定する。……抵抗は無意味だ」
男が無言で大剣の石突を地面へ穿つと、古代術式の幾何学模様が地表を走り、黒い鉄鎖が旧研究棟の周囲を寸分の隙もなく囲い込んだ。
同時に、隣に立つ細身の男が短剣を交差させる。男の足元から漆黒の影が爆発的に広がり、粘性の壁となって中庭の退路を真っ二つに分断した。
エーテル測定器のアラートが静かに鳴り響く。
一撃の重み、魔力操作の精度、戦術的な布陣の無駄のなさ――まぎれもなく死線を幾度も越えてきた本物の手練れたちであった。
(……正面からぶつかれば、今の彼女たちの実力でも瞬時に圧殺されますね)
残された唯一の選択肢は、旧研究棟の地下から本館へと続く極秘の連絡通路へ退避すること。
だが、この二人の包囲網を前にして全員で動けば、背後から一網打尽にされる。
「……チッ。計算通りに動いてくれないのが、実戦の鬱陶しいところです」
私が白衣のポケットのアンプルに指をかけ、自ら迎撃の起点を作ろうとした――その瞬間。
「エルカ様! ここはあたくしとクロエさんで食い止めますわ!」
セリアが凛と前を向き、扇子を広げて影を操る男の前に立ちはだかった。
「セリア……?」
「正面から挑んで敵う相手ではないことくらい、あたくしにだって分かります! ですが……エルカ様から教わった理論と、調律されたクロエさんの魔法を組み合わせれば、時間を稼ぐ隙くらいは作ってみせますわ! 殿下をお連れして、早く地下へ!」
「そ、そうですエルカ先輩……! 私、先輩に教えてもらったこと、全部ぶつけます! 足手まといのままじゃ終わりたくありません……!」
クロエは恐怖に膝を震わせながらも、アシストリングを嵌めた右手を胸元で固く握りしめ、前を見据えていた。
「二人とも、いけません……! 私のためにそんな危険な……!」
悲痛な声を上げるクラリスを、私は片手で制した。
セリアの魔力循環には乱れがない。相手の圧倒的な実力を正確に認識した上で、恐怖を計算へと昇華させている。
クロエの右手に収束する水のマナも、先ほどの特訓通りの鋭い回転を保っていた。
(……勝率は極めて低い。ですが、私が授けた術式と彼女たちの頭脳戦が噛み合えば、ゼロではありませんね)
私は丸メガネをツッと押し上げ、冷徹な声音の奥に確かな信頼を込めて告げた。
「……無駄死には許可しませんよ。私が手を入れた術式が、二流の殺し屋ごときに遅れをとるはずがありませんからね」
「ふふ、言いましたわねエルカ様! 最高の結果を出して見せつけますわ!」
「は、はいっ……! 絶対に耐え抜きます!」
「行きますよ、殿下。フィリア、シズク、地下通路の扉を開放しなさい」
「「はいっ!」」
私はクラリスの手を引き、地下への扉へと駆け出した。
背後で、細身の男が放つ冷たい殺気と、セリアたちの研ぎ澄まされた魔力が激突する音が響き渡った。




