水の調律
クラリス王女の工房脱走劇から数日。
視察日程の折り返しを迎えた午後、旧研究棟裏の開けた訓練広場には、水しぶきと情けない悲鳴が響き渡っていた。
「ひゃぅぅっ!? また手元で弾けちゃいました……!」
――バシャァン!
水色のショートヘアをびしょ濡れにしたクロエが、尻餅をついて半泣きになっていた。
放とうとした水流が制御を失い、標的の木人ではなく自分自身の頭上へと降り注いだのだ。
「……出力に対して流体制御の演算が追いついていません。蛇口全開のホースを両手放しで暴れさせているようなものです」
木陰のデッキチェアに深く腰掛けた私は、フィリアに差し出された冷たいアイスティーをすすりながら、気怠げに丸メガネを押し上げた。
「ですが、エルカ先輩! 私、水魔術の魔力量だけなら学年でもトップクラスだって言われてるんです……! 王女殿下の護衛として、少しでもお役に立ちたいのに……」
しおらしく俯くクロエの頭を、見学に来ていたクラリスがハンカチで優しく拭う。
「クロエ様、焦らなくて大丈夫ですよ。あなたの放つ魔力はとても澄んでいて、温かいです」
「で、殿下ぁ……お優しい……!」
「優しい言葉で運動エネルギーのベクトルは収束しません」
私が冷淡に言い放つと、素振りを終えて汗を拭いていたシズクが苦笑いを浮かべた。
「エルカ殿、クロエ殿の熱意は本物だ。かつて我が刀を導いてくれたように、何か良き知恵を授けてやってはくれまいか?」
「……タダ働きは専門外ですが、敵襲時に味方を水没させられては迷惑ですからね」
私は億劫そうに立ち上がり、作業台から一本の銀細工の指輪を持ってくると、クロエの右手の人差し指へと嵌め込んだ。
指輪の中央には、極小の蒼い魔導宝石が埋め込まれている。
「エルカ先輩、これは……?」
「流体制御用のアシストリングです。術式を展開する際、水を力任せに『押し出す』のではなく、螺旋の回転を与えて『収束』させなさい。水分子に遠心力をかけ、高圧のノズルから撃ち出すイメージです」
私はクロエの背後に回り、その華奢な右腕を取って標的の木人へと向けさせた。
至近距離から伝わるエルカの体温と甘い香りに、クロエが「ふぇっ……!?」と耳まで真っ赤にする。
「……何を動揺しているのですか。脈拍が上がると魔力供給が乱れます。集中しなさい」
「は、はいっ……!」
「私の指が離れた瞬間に、魔力を『回転』させながら放流。――三、二、一、今です」
クロエが息を呑み、術式を解放する。
「|水よ、螺旋を成して貫け《トルクエ・アクア・エト・フォラ》――っ!」
――ズドォォォッ!!
指輪の宝石が青く発光した瞬間、クロエの手のひらから放たれたのは、これまでの散漫な水しぶきではなかった。
鋭く尖った高圧水流の槍が、空気を切り裂く轟音と共に一直線に射出され、三十メートル先の分厚い木人を一撃で粉砕・貫通した。
周囲に散る、霧状の涼やかな水煙。
「……え?」
クロエが自分の手を呆然と見つめる。
「あら……! 広範囲を濡らすだけだったクロエさんの水魔法が、完全に一点集中の貫通砲になりましたわね!」
セリアが目を丸くして扇子を叩く。
「すごい……! エルカ先輩、私、木人を一撃で……!」
大興奮したクロエが、濡れた体も構わずに「エルカ先輩ぃぃっ!」と抱きついてきた。
「ちょっ……離れなさいクロエ! 水分が白衣に付着します!」
「エルカ様、また一人、立派な懐き手が増えましたね」
フィリアがくすくすと微笑み、クラリスも「ふふ、素敵な魔法です」と嬉しそうに拍手を送る。
だが――戯れる少女たちの穏やかな空気の最中、私はポケットの中の計測器が小さく振動したのを感じ取っていた。
(……学園外縁の防護結界、第三層の共振周波数に微細な乱れ。……予定より早いですね)
暗殺者たちの足音が、確実に近づいていた。




