お忍び王女の脱走と工房のスイーツ
華やかな夜会から一夜明けた午後。
私はいつものボサボサ赤毛に丸メガネ、着崩した白衣という完全な『定常運転』に戻り、作業台で薬品の調合に没頭していた。
「……やはりこの白衣とメガネこそが至高です。コルセットなどという人体の呼吸器系を圧迫する拷問具は二度と着用しません」
「もう、エルカ様ったら。昨夜のドレス姿、あんなに息を呑むほど美しかったのに……」
オーブンから焼き立てのアップルパイを取り出しながら、フィリアがうっとりと頬に手を当てる。
「あたくしも認めざるを得ませんわ。普段の気怠げな姿からは想像もつかないプロポーションといい、あの完璧なステップ……! 会場中の殿方どころか、令嬢たちまで頬を染めてエルカ特待生を凝視していましたもの」
「うむ! エルカ殿が舞踏の輪の中心に立った瞬間、夜会全体の空気が変わっていた」
「わ、わかりますシズクさん! 私、見ていてドキドキしちゃいました!」
「……全員、口を慎みなさい。昨夜の舞踏はただの気の迷いに過ぎません」
私がハチミツの壺からスプーンで結晶蜜を掬って舐め、不機嫌そうに毒づいた――その時だった。
――トントン、ガチャリ!
工房の重い木扉が勢いよく開き、フードを目深に被った小柄な人影が滑り込んできた。
「た、助けてくださいませ……! 隠れる場所はございませんか……!?」
フードを脱ぎ捨てて現れたのは、金糸の髪を乱した第一王女クラリスだった。
息を切らし、白銀の瞳を潤ませて周囲を見回している。
「……はあ。急な来訪者による気流の乱れで、調合の天秤が狂いました。用がないなら即座に退去を」
私が作業台から顔も上げずに追い払おうとすると、セリアが即座に割り込んできた。
素早く扉の鍵を閉め、窓辺でパチンと指を鳴らして風魔術を展開する。遠くの講堂へ偽の足音を響かせ、追っ手の気を逸らした。
「クラリス殿下……!? 騎士団を撒いてこんなところまで走っていらしたのですの? 一体どうしてまた旧研究棟へ……」
「兄上から……『息が詰まったらここへ行け』と……それに、昨夜あんなに美しく踊られていたエルカ様に、どうしてもお会いしてみたくて。裏庭を抜けてきたら、すごく甘くて良い匂いがしたので……」
「なるほど、ユリウス様の仕込みとアップルパイの誘惑ですわね」
セリアが納得したように頷き、テラスへ視線を送る。
「シズクさんは周囲の警戒、クロエさんはお茶の準備をお願いできますこと?」
「心得た!」
「は、はいっ! すぐ淹れます!」
二人が手際よく動き出す中、フィリアが温かい笑みを浮かべ、切り分けたばかりのアップルパイをクラリスの前へ差し出した。
「殿下、どうぞこちらへ。焼きたてですよ。ハチミツカモミールティーと一緒に召し上がってくださいね」
「あ、ありがとうございます……!」
クラリスは恐る恐るフォークを伸ばし、サクサクのパイを口へ運んだ。
途端にパッと表情が明るくなる。
「――っ! おいしい……! 宮廷のお菓子よりもずっと温かくて……こんなの初めてです……!」
張り詰めていた肩の力が抜け、年相応の柔らかな笑顔を見せるクラリス。
そんな王女の姿を横目に、私は試験管をスタンドに戻しながら冷ややかに告げた。
「王女の無断脱走を匿うなど、国家反逆罪の教唆に問われかねません。パイを食べ終えたら即座に正規の護衛へ引き渡します。ここは託児所ではありませんので」
「まあまあ、エルカ様ったら」
フィリアがくすくすと笑いながら、私の手元にも追加のハチミツ小皿をコトッと置いた。
「そう言いながら、クラリス様のお茶に鎮静作用のある薬草シロップをこっそり垂らしてくださったじゃないですか。本当はお優しいくせに」
「……余剰在庫の処分です」
「殿下、エルカ特待生はいつもこうして不愛想に追い出そうとなさいますが、本気で怒っているときはもっと理屈っぽく言葉で締め出しますの。お茶を飲んでいるうちは、いくらでも甘えて大丈夫ですわ」
セリアが呆れたように肩をすくめ、クラリスに向かってウィンクする。
「ふふっ……そうなのですね」
クラリスは嬉しそうに目を細め、白衣姿の私をまじまじと見つめた。
「エルカ様、昨夜のドレス姿も息を呑むほど素敵でしたけれど……こうして白衣を着て、少し不機嫌そうにしていらっしゃるお姿も、なんだかとても格好良くて素敵です」
「…………くッ」
私は居心地の悪さに視線を反らし、丸メガネを押し上げて作業台へと向き直った。
工房を包む甘い匂いと穏やかな笑い声。
その裏で、学園の防護結界に忍び寄る「微細な歪み」を、机の端に置いた計測器が静かに捉え始めていた。




