静かな盤上
「……見事だ。完敗だな」
手帳から視線を上げたユリウスは、深いため息と共に、自嘲気味に口元をわずかに緩めた。
血統に甘んじる他の貴族と違い、己を律し鍛錬を重ねてきた男だからこそ、提示された数式の絶対的な正しさをプライドに邪魔されず呑み込めるのだ。
「宮廷魔術師団が総出で三ヶ月頭を抱えていた術式の歪みを、わずか数十秒で解体・再構築してみせるとはな。……歴史の盲信、か。手痛い教訓を得た」
「理解できたなら結構です。……で、殿下」
私はフィリアの淹れた温かいお茶をすすり、メガネを直す。
「私の大変貴重な読書時間を奪った対価は、きちんと支払っていただけるのでしょうね?」
「……フッ」
ユリウスの切れ長の青い瞳が、わずかに細められた。
彼は懐から一枚の公文書を取り出し、作業台の上に滑らせる。
「ガルディス卿の派閥から上がっていた貴様ら二名の退学要請、および旧錬金棟の即時取り壊し申請――これは生徒会の権限で『差し止め』とし、無期限の凍結処分とする」
「……っ!」
背後でフィリアが息を呑む。
「さらに、この工房を生徒会直轄の『暫定管理区域』に指定する。学園上層部といえど、生徒会長たる私の許可なく立ち入ることは許されない」
「……だが勘違いするなよ、エルカ。貴様の頭脳は認めたが、その素性を完全に信用したわけではない。……ヴァレンシュタイン副会長」
「は、はいっ!」
セリアが背筋をピンと伸ばす。
「今後、貴様がこの旧研究棟の『定期監査役』を務めろ。特待生エルカが不穏な動きを見せないか、側で監視を続け、定期的に生徒会へ状況を報告しろ」
「か、監査役……! 私が、ですの!?」
セリアは驚きつつも、どこか「これで堂々とここへ通い続けられる」と安堵したようにピンク色の瞳を輝かせた。
差し出された書類の端を、私は指先でトンと押さえる。
そして――カップの湯気の向こうで、口元に微かな、極めて薄い笑みを浮かべた。
「交渉成立ですね、生徒会長」
「…………」
その笑みを見た瞬間、ユリウスの眉がピクリと跳ね、青い瞳に微かな戦慄が走った。
言葉の応酬はなく、ただ書類を挟んで視線が交錯する。
刹那――二人の思考は、演習場から始まった一連の盤面を同時に辿っていた。
(今後の研究を保証させ、私たちの行動を阻害させないために誘い込んだつもりですが……実質タダで大結界の難題を解かせ、セリアを監視役として通わせさらなる成長を促し、退学要求を潰して私へ接触する足がかりを残す……。一度の査問でこれだけの手際を見せるとは)
(演習場での騒動、副会長の敗北と工房通い、そして私の直接介入――まさか貴様、最初から私をこの場へ引きずり出し、退学を潰して『特区』の権利を掠め取るために、あそこから全て敷いていたのか……?)
互いの脳裏をよぎる、まったく同じ結論。
((……まったく、食えない女だ))
「退学の撤回と工房の存続ですか。……まあ、最低限の働きはしてくれるようですね」
私がだらしなくあくびを噛み殺しながら応じると、ユリウスは漆黒のマントを翻して踵を返した。
「……では失礼する。エルカ、いずれ貴様のその知識、学園ひいては国のために役立ててもらうぞ」
「お断りします。私は静かに寝て、お茶を飲んで、気ままに研究したいだけですので。……お帰りの際は扉を静かに閉めてくださいね」
私が手をひらひらと振ると、ユリウスは小さく鼻を鳴らし、音もなく工房を去っていった。
バタン、と重い鉄扉が閉まり、工房に再び静けさが戻る。
「……はあぁぁ……っ。生きた心地がいたしませんでしたわ……!」
セリアがソファに崩れ落ち、胸を撫で下ろした。
「でも……エルカ様! 私、退学にならなくて済んだんですね……! 工房も壊されないで、エルカ様と一緒にここにいていいんですね……っ!」
フィリアが琥珀色の瞳から大粒の涙を零しながら、私の白衣の裾をぎゅっと握りしめて微笑んだ。
「泣かないの。当たり前の結果です。……さて、邪魔者も去りましたし、フィリア、糖分が足りません」
「あ、エルカ特待生! 約束のフォンダンショコラは私が持参いたしましたわよ!」
セリアが慌てて立ち上がり、嬉々として鞄から銀色の包みを取り出す。
「……監査役令嬢、あなたもいつまで居座る気ですか」
「生徒会長から直々に『監査』を命じられたのですから、私が毎日ここをチェックするのは当然の義務ですわ! ほら、温かいお茶と一緒にいただきましょう!」
賑やかな声が響く、ピカピカに磨かれた工房。
私は作業台の上で湯気を立てるお茶を見つめながら、静かにメガネを押し上げた。
(生徒会を巻き込んで、ひとまず確固たる地盤は整いましたね……)
焦る必要はない。
怠惰な大錬金術師の長い戦いは、居場所を完全に確立したここから、静かに、だが着実に次の段階へと進み出そうとしていた。




