皇太子殿下
――トントントン。
静かで、だが寸分の乱れもない規則正しいノックの音が、工房の静寂を切り裂いた。
扉の向こうから漏れ出してくるのは、風紀隊や演習場の教官たちとは次元の違う、底知れぬほど研ぎ澄まされた重厚な魔力圧だった。
「ひっ……!」
フィリアが息を呑み、思わず私の背後へと身を寄せる。
セリアに至っては、先ほどまでの威勢の良さが嘘のように顔を真っ青にし、カタカタと指先を震わせていた。
「嘘……嘘ですわ……。な、なぜあの方が、直々にこんな辺境の旧研究棟まで……」
「知り合いですか、騒音令嬢。客ならさっさと開けなさい、ノックの反響音が耳障りです」
私は最後の一口のタルトをもぐもぐと飲み込み、フォークを置いて丸メガネを指先で押し上げた。
「ば、馬鹿をおっしゃらないでエルカ特待生! あのお方は……生徒会長にして、この学園の絶対的な頂点! 当代最強の魔術師の血を引く、第一王位継承者――皇太子殿下ですわよ……っ!」
「へえ、王族ですか。……なおさら早く開けなさい。身分の高い人間ほど待たされると無駄な癇癪を起こします」
私がだらしない白衣のポケットに手を突っ込みながら淡々と告げると、セリアは覚悟を決めたように喉を鳴らし、震える足で扉へと向かった。
ギギィ……と重い鉄扉が開かれる。
夕闇の迫る外の光を背に受けて立っていたのは、一人の長身の青年だった。
プラチナブロンドの眩い髪をきっちりと撫で付け、冷徹なまでの美貌を宿した切れ長の青い瞳。
漆黒の生徒会長マントを羽織り、胸元には学園でただ一人だけに許された純金と星辰石の最高位徽章が輝いている。
彼がそこに立っているだけで、周囲の大気がまるで凍りついたかのように張り詰めていた。
「……やはり、ここにいたか。ヴァレンシュタイン副会長」
低く、どこか金属的な冷徹さを孕んだ美声が響く。
生徒会長――ユリウス・フォン・グランツライヒ。
「ゆ、ユリウス会長……っ! こ、これはその……私、決して職務を放棄していたわけではなく、術式の検証のために――」
「弁明は不要だ。……君の最近の行動、そして風紀隊の報告書はすべて目を通している」
ユリウスはセリアの言葉を感情の籠もらない声音で遮ると、その鋭利な視線を工房の奥へと滑らせた。
ピカピカに磨かれた石畳。
優雅なレースカーテン。
机の上に残るハチミツタルトの甘い香り。
そして――ボロ椅子にふんぞり返り、ボサボサの赤毛を鬱陶しそうにいじりながら、ジト目で自分を見上げている私の姿を。
「……噂通りの有様だな。魔力無き特待生」
ユリウスが一歩、工房の中へと足を踏み入れた。
その瞬間、ドッと彼の足元から無言の威圧――触れた者を平伏させるような『覇気と魔力の波』が工房全体へと押し寄せる。
「ひゃうっ……!?」
フィリアが耐えきれずに膝をつきかける。
並の生徒であれば、その場に跪いて慈悲を乞うような王族の絶対的重圧。
だが――
(……はあ。権力者というのは、なぜ揃いも揃って他人の部屋に入るときに魔力を撒き散らすのでしょうね)
私は小さくため息を吐くと、腰の錬金調律器を抜き、手元の作業台の天板をコツンと軽く叩いた。
「――静止せよ」
短く紡がれた古代語の起動句。
調律器から放たれた極小の共振波が、工房の床に敷設されていた魔力循環回路を通り、ユリウスの放った重圧の波形と真っ向から衝突した。
シュゥゥゥ……ッ。
ユリウスの放っていた凄まじい威圧が、まるで風に吹き消された蝋燭の火のように、私の座る半径二メートルの手前で完全に消失した。
涼やかな風すら起きない。
「…………」
ユリウスの青い瞳が、微かに細められた。
彼の無表情な仮面の奥で、強烈な計算と警戒の火がチロリと灯る。
「……なるほど。ガルディスを退け、セリアの至高魔術を解体したというのは、誇張ではなかったようだな」
「用件があるなら手短にどうぞ、皇太子殿下」
私は調律器を回してホルダーへと戻し、だらしない白衣のポケットに両手を突っ込んだ。
「見ての通り、私は先ほど糖分補給を終えたばかりで、これから至高の読書タイムに入る予定だったのです。……他人の貴重な可処分時間を奪うなら、それに見合う対価を用意してあるのでしょうね?」
「エルカ様、な、何を言っているのですか相手は皇太子殿下ですわよ――!?」
セリアが悲鳴のような小声で制止してくる中、学園の最高権力者と、百年前から蘇った怠惰な大錬金術師の視線が、静かに交錯した。




