甘味の誘惑
「エルカ様、エルカ様! 街の市場で珍しい果物が安かったので、ハチミツ漬けのタルトを焼いてみました!」
すっかり居心地の良くなった工房のテーブルに、フィリアが嬉しそうに焼き立てのタルトを運んできた。
黄金色に焼き上がったタルト生地の上には、宝石のように輝く果実と、つやつやのハチミツが惜しげもなくかけられている。
「……またそんな非効率な炭水化物の塊を。胃袋に固形物を詰め込むのは消化活動によるエネルギーロスです」
私はボサボサの赤毛の頭を抱え、作業台に突っ伏したまま、だるそうにメガネを指先で押し上げた。
だが――
(……ハチミツの純度が高い。大気中の糖度濃度が先ほどより三倍に跳ね上がっている……)
特製の錬金硝子をチラリと動かす。
視界の端に映るタルトの黄金比率。鼻腔をくすぐる甘く香ばしい匂い。
思考を酷使した私の脳が、ピキピキと強烈なブドウ糖の要求信号を鳴らし始めていた。
「あら、いらないのでしたら私が全部いただいてしまいますわよ? フィリアさんの手作りタルト、とても美味しそうですもの」
隣のふかふかソファで優雅に紅茶を飲んでいたセリアが、フォークを手に伸ばそうとした。
その瞬間――
サッ……!
目にも留まらぬ速度で私の右手が動き、タルトの乗った皿が一瞬で私の手元へと引き寄せられた。
「ちょっ……!? 早っ!?」
「勘違いしないでいただきたい。昨夜の難解な術式解析により、私の脳内ブドウ糖濃度は危険水域まで低下しています。これは嗜好品としての摂取ではなく、中枢神経系を維持するための『不可欠な科学的燃料補給』です」
早口で冷徹に言い訳を並べ立てながら、私は一切れのタルトをフォークで切り分け、素早く口の中へと放り込んだ。
サクッ……ジュワッ。
口いっぱいに広がる、とろけるようなハチミツの濃厚な甘みと、甘酸っぱい果汁のハーモニー。
その瞬間――
(――っ……! 脳の毛細血管に直接糖分が染み渡っていく……!)
私のジト目が微かに見開かれ、ふにゃりと眉尻が下がる。
白衣の袖口をきゅっと握りしめ、無意識のうちに小さく「……ん、美味」と至福の吐息を漏らしながら、もぐもぐと小動物のように頬袋を動かしていた。
「…………」
「…………」
工房の中に、奇妙な沈黙が流れる。
見れば、フィリアとセリアの二人が、ぽかんと口を開けて私を凝視していた。
「な、何ですか二人とも。他人の生体維持活動を無遠慮に見つめるのはマナー違反ですよ」
「あ、あの……エルカ様」
フィリアが琥珀色の瞳をきらきらと輝かせ、両手を胸の前で合わせた。
「もしかしてエルカ様って……甘いものが、大好きなんですか……!?」
「なっ……! 馬鹿なことを言わないでください。私はただ、単糖類および二糖類がもたらすエネルギー効率を高く評価しているだけで――」
「嘘をおっしゃいな!」
セリアがバッと立ち上がり、ピンク色の縦ロールを揺らしながらビシッと私を指差した。
「今、明らかに口元が緩んで幸せそうな顔をしていらっしゃいましたわ! 初日に私が持参したマカロンを食べた時も、ものすごい勢いで完食していましたもの!」
「あれはただの対価です」
「じゃあこれ、どうですの!」
セリアはおもむろに制服のポケットから、公爵家御用達の銀紙に包まれた一口チョコレートを取り出し、私の目の前でチラチラと揺らした。
最高級カカオとキャラメルの濃厚な甘い香りが漂う。
(……くっ、高純度カカオ油脂とキャラメル糖の結晶構造……!)
私の目が、無意識のうちにセリアの持つチョコレートの軌道を追って左右に動く。
メガネの奥の視線が完全に釘付けになっているのを、セリアは見逃さなかった。
「ふ、ふふふ……! 見つけましたわ、冷徹偏屈赤毛特待生の弱点を……! この私が、貴女の鼻を明かす最強の武器を……!」
「……セリア様、エルカ様をからかっちゃダメです」
フィリアはクスリと笑うと、残りのタルトを切り分け、私の前にことりと置いた。
「エルカ様、おかわりもありますからね。たくさん頭を使って疲れたら、いつでも言ってください。私、エルカ様のために毎日あま〜いお菓子をたくさん作りますから!」
「……フィリア。甘いものばかりでは栄養価が偏ります。……ですが、このタルトの配合比率は極めて優秀なので、明日も検証のために作っておきなさい」
「はいっ、喜んで!」
嬉しそうにお茶を淹れ直すフィリアと、「明日は王都で一番甘いフォンダンショコラを持ってきて差し上げますわ!」と変な闘志を燃やすセリア。
もぐもぐとタルトを頬張る私の周りは、いつも以上に甘やかで騒がしい空気に包まれていた。
――だが。
そんな工房のほのぼのとした空気を切り裂くように。
ピピッ……ピピッ……!
作業台の隅に置いていた魔力感知センサーが、これまでにない異常な警告音を鳴らし始めた。
「……ん?」
フォークをくわえたまま、私が感知盤へと視線を落とす。
そこには、これまでに対峙した誰とも比較にならない――底知れぬ巨大な魔力の塊が、工房のすぐ外まで音もなく接近していることを示す波形が浮かび上がっていた。
「……セリア様、エルカ様? 誰か、外に来たみたいです……?」
フィリアが異変に気づいて窓の外を見る。
セリアがその気配を察知した瞬間、ピンク色の美貌からサッと血の気が引いた。
「嘘……この魔力圧は……ま、まさか……あの方が直々に……!?」
ガタガタと震え出すセリア。
旧錬金棟の扉が、ゆっくりと、だが絶対的な威圧感を伴ってノックされた。




