特別講義
「――なぜ冷気を混ぜる必要があるのか、ですって? そんな初歩の熱力学すら理解していなかったのですか」
私は赤インクを浸した羽ペンを走らせ、セリアの羊皮紙に容赦なく斜線を引いていく。
「上昇気流と下降気流。自然界の風が発生する原理はすべて『温度差による空気の密度勾配』です。あなたの術式は、力任せに空気を引っ張っているだけ。それでは消費魔力の四割を、大気との摩擦熱で捨てているのと同じですよ」
「しょ、消費魔力の四割をドブに……っ!?」
セリアは青ざめながら、私が殴り書きする数式と幾何学図形に食い入るように視線を注いでいた。
私の辛辣な毒舌に頬をピクピクと引きつらせつつも、そのピンク色の瞳は、今まで誰も教えてくれなかった魔術の真理を前に、らんらんと輝いている。
「ここに微小な冷却術式を直列で組み込みなさい。自力で風を回すのではなく、中心を冷やして外側をわずかに温める。……そうすれば、環境魔力が勝手に渦を巻き、あなたの負担は三分の一以下に減ります」
「な……っ!? 術式同士を直列で干渉させるなんて、暴発の危険が……いえ、待って。この補助式を通せば、波形が完璧に同期して……嘘、こんな簡潔な式で、本当に風が自立稼働しますの……!?」
セリアの震える指先が、羊皮紙をなぞる。
天才と持て囃されてきた彼女だからこそ、目の前に提示された理論の圧倒的な美しさと正しさが、骨身にしみるほど理解できてしまうのだ。
私は目を細め、心の中で小さく頷いた。
理解の速度が並外れている。一を言えば十を悟り、自力で派生式まで組み立てようとするその頭脳は、百年前の私の研究室にいても助手として合格を出せるレベルだ。
「セリア様、エルカ様、お待たせいたしました!」
そこへ、トレイを持ったフィリアが小走りでやってきた。
テーブルにことりと置かれたのは、昨日と同じ清純な香りを放つ特製香草茶。
そして――小さな木皿に乗せられた、こんがりと黄金色に焼き上がったスコーンだった。
「あの、マカロンをいただいたお礼に……工房の裏で採れた野イチゴのジャムを添えてみました。お口に合うといいのですが……」
恥ずかしそうにモジモジするフィリア。
セリアはハッと我に返り、背筋をピンと伸ばして咳払いを一つした。
「ふ、ふん! 公爵家の私が、このような平民の作った素朴な焼き菓子など――」
言いかけながらも、スコーンから漂う香ばしいバターの匂いと、甘酸っぱい野イチゴの香りに抗えず、セリアの手は無意識に伸びていた。
ちぎった生地にジャムを乗せ、おそるおそる口へ運ぶ。
「――っ……!」
サクッとした食感の後に広がる、優しい甘みと野イチゴの濃厚な風味。
高級店の気取ったスイーツとは違う、素材の命と作り手の温もりがダイレクトに伝わってくるような味わいだった。
「……お、美味しいですわ……。余計な雑味が一切なくて、生地の口溶けが完璧ですわね……」
「本当ですか……!? よかったぁ……!」
フィリアがパッと花が咲いたような笑顔を浮かべる。
誰に対しても分け隔てなく接し、一生懸命にお世話を焼くフィリアの純粋さに、セリアのツンとした表情がみるみるうちに緩んでいく。
「あ、温かいお茶のおかわりもすぐにお持ちしますね、セリア様!」
「え、ええ……ありがたくいただきますわ、フィリアさん」
公爵令嬢が、没落したアシュフォードの少女に敬称をつけてお礼を言っている。
昨日の演習場で見下されていた姿からは、到底信じられない光景だった。
(思った以上に素直な人間なのかもしれませんね……)
「……フィリア。私の分のお茶がまだ入っていませんよ」
「あ、エルカ様! ごめんなさい、すぐにお持ちしますっ!」
慌てて台所へと戻るフィリアの背中を眺めながら、セリアは熱いお茶を両手で包み込み、ふうと至福の吐息を漏らした。
彼女の膝の上には、エルカの朱入れで真っ赤になった魔導ノート。
「……不思議な場所ですわね、ここは。埃っぽくて、ボロボロで……なのに、学園のどの講義室よりも、ずっと深く魔術の息吹を感じますわ」
「ただの作業場です。感傷に浸っていないで、次の数式の展開を解きなさい。……日が暮れるまでに終わらなければ、明日の講義で恥をかきますよ」
「言われなくても解いて差し上げますわ! 見ていらっしゃい、エルカ特待生!」
夕暮れの琥珀色の光が差し込む工房で、羽ペンの走る乾いた音と、お湯の沸く穏やかな音が重なり合っていた。




