新しい風
静まり返る旧錬金棟の前庭。
夕闇が迫る中、膝をついたセリアの喉元から、私はスッと錬金調律器を引いた。
「ひ、ひぃっ……!」
風紀隊の生徒たちが怯えて腰を抜かす中、セリアは喉元を押さえ、乱れたピンク髪の縦ロールの隙間から、信じられないものを見る目で私を見上げていた。
「わ、私は……負けたのですの……? 魔力を持たない、平民の特待生に……?」
「勝負にすらなっていませんよ。自滅の引き金を少し引いて差し上げただけです」
私は調律器を腰のホルダーへと戻し、だらしない白衣のポケットから、先ほどの硝子記録盤をセリアの目の前へ放り投げた。
カラン、と石畳に乾いた音が響く。
「……っ! な、何ですの、これは……?」
「先ほども言った通り、演習場の魔力波形データです。相手側が先に致死性の雷撃術式を放った事実、そしてフィリアの反撃が純粋な物理衝撃の反射であったことが全て記録されています。必要であれば映像も残っていますが……生徒会としてこの事件をどう処理するかは、公爵令嬢たるあなたの良識に委ねますよ」
「……っ」
セリアは震える手で硝子盤を拾い上げ、そこに浮かび上がる精密な数式と波形を凝視した。
彼女は高飛車で傲慢ではあるが、決して無能でも悪党でもない。真面目で術式の理屈を理解できるからこそ、そこに記録された『改ざん不可能な真実』を前に、反論の言葉を失っていた。
「……私の、完敗ですわ。ガルディス卿の件は……風紀委員会として正当防衛と判断し、これ以上の不問といたします」
セリアは屈辱に唇を噛みしめながら、か細い声で宣言した。
風紀隊の生徒たちが慌てて彼女を支えようと駆け寄る。
(ほう……ただ、プライドが高いだけの他の魔術師とは少し違うようですね)
「さて。用件が済んだなら、速やかに立ち去りなさい。夕暮れの風で身体が冷えます」
私が背を向け、工房の扉へ手をかけたその時だった。
ギギィ……と扉が開き、中から恐る恐るフィリアが顔を出した。
その手には、湯気を立ち上らせる木製のお盆と、湯呑みのような素焼きのカップが乗せられている。
「あ、あの……エルカ様、お茶が入りました……! そちらの、セリア様たちも……もしよろしければ、温かいお茶でも……」
おずおずと差し出されたカップ。
その瞬間、ふわりと工房の前庭全体に、信じられないほど甘やかで清純な香りが広がった。
「……っ!? こ、この香りは……!?」
セリアのピンク色の眉がピクリと跳ね、鼻腔が微かに動いた。
それは柑橘に似た爽やかさと、深山のエーテルをそのまま濃縮したかのような奥深い芳香。
術式の強制解除によって体内の魔力回路が乱れ、疲弊しきっていたセリアの身体にとって、それは抗いようのない甘美な誘惑だった。
「……はあ。騒音令嬢。飲むならさっさと飲んで帰りなさい」
「だ、誰が騒音令嬢ですの! わ、私はヴァレンシュタイン公爵家の……っ!」
ぷりぷりと怒りながらも、セリアの手は無意識にカップへと伸びていた。
息を吹きかけ、おそるおそる熱い液体を一口、口に含む。
その瞬間――
「――っ!?」
セリアの琥珀がかった瞳が見開かれ、白い頬がぽわんと朱に染まった。
「な、何ですのこのお茶……!? 口の中に広がる上品な風味……それだけでなく、乱れていた魔力回路の摩擦熱が、スーッと引いていくような……! 王室御用達の高級茶葉ですら、こんな効能はありませんわ……!」
「ほんとだ……!」「疲れがスッと抜けてくみたい!」他の生徒も口々に感想を述べている。
先ほどまでの高飛車な態度はどこへやら、セリアは両手でカップを包み込み、夢中になって飲み干してしまった。
ふう、と至福の吐息を漏らす姿は、年相応の可愛らしい少女そのものだった。
「当たり前です。工房の裏庭に自生していた薬草から、魔力沈静の触媒成分だけを錬金抽出してブレンドした特製茶ですからね」
私が冷めた目でそう告げると、セリアはハッと我に返り、顔を真っ赤にしてカップを突き返した。
「べ、別に美味しくなんてありませんわ! ただ、少し喉が渇いていただけですわよ!」
「そうですか。では、カップを返したら速やかに撤収しなさい」
「なっ……! ひ、人に物を頼む態度ではありませんわね! 」
「……あ、あの、エルカ特待生」
去り際、セリアは乱れた縦ロールを指先で巻き直しながら、上目遣いで私をチラリと睨みつけた。
「……先ほどの、第四階梯の術式の欠陥……『格変化』と『気圧差の導き方』について、詳しく聞かせていただきたいのですけれど。明日の放課後、もう一度ここへ来てもよろしくて?」
「断ります。私の研究の邪魔です」
「な、ななな……っ! わ、分かりましたわ! 手ぶらでは来ません、王都最高峰の菓子店『ル・ロワ』の新作マカロンを箱ごと持参いたしますわ! それで文句はありませんわね!?」
「ぜったい……絶対このままでは終わりませんことよー!!」
キーッと叫びながら、セリアは取り巻きの風紀隊を引き連れ、嵐のように去っていった。
静けさを取り戻した前庭。
フィリアはぽかんと口を開けて、その背中を見送っていた。
「す、すごいですエルカ様……! あのセリア様が……!」
「騒がしいのが一人増えただけです。……それよりフィリア、夕食にしなさい。糖分が足りず思考速度が落ちています」
「はいっ! 今夜は美味しいシチューを作りますね、エルカ様!」
夕闇の中、私たちは修繕を終えた工房へと戻り、温かな明かりを灯した。
百年の時を超えた研究の拠点は、確実にその地盤を固めつつあった。




