第9話 見てはならぬもの
グラナートの森は、昼でも薄暗かった。
鬱蒼と茂る木々が陽光を遮り、足元には霧が這う。一歩踏み入れた瞬間から、肌にまとわりつくような感覚があった。
――見られている。
どこからともなく、無数の視線。木の陰から、霧の奥から、頭上の枝から。振り返っても、誰もいない。だが、確かに、視られている。背筋を、冷たいものが這い上がる。
「ひっ……な、なんですの、この感じ……!」エルザが、青い顔で俺の腕にしがみついた。「わ、わたくし、別に怖くなんてありませんわよ! ただ、その、寒いだけですわ!」
「腕、痛い」
「あっ、ご、ごめんあそばせ……!」
フレアは平然と歩いている。カルラの炎が、邪なものを寄せつけないのかもしれない。ヴァナは仔狼の姿で、しきりに周囲を警戒していた。
『近いぞ、縁の子』羅睺が、低く言った。『この森のすべての"目"が、お前たちを追っている。その源が――森の最奥にいる』
※
森の中心に、それはあった。
苔むした、古い社。朽ちかけた木の鳥居に、見覚えのある異国の呪――梵字に似た文字が刻まれている。羅睺やカルラを封じていたのと、同じ系統の封印だ。
社の奥、闇の中に、それは佇んでいた。
痩躯の、人型。長い黒髪と、ぼろぼろの衣で全身を覆っている。顔は俯いていて見えない。だが――その身を覆う衣のあちこちに、閉じた"目"が無数に浮かんでいた。腕にも、肩にも、背にも。眠るように、閉じた瞼が、びっしりと。
そして、俯いたその顔に、ただ一つだけ――薄く開いた、片目があった。
その片目が、ぎょろりと、俺たちを捉えた。
『……来たか』
掠れた、性別も年齢も判然としない声。
『視える。お前たちのこと、すべて視える。隠し事も、過去も、これから先のことも……視たくなくとも、視えてしまう。それが、わたしの業だ』
「お前が、この森の"呪い"か」
『呪い、か』その存在は、自嘲するように呟いた。『そう呼ばれて、もう、どれほど経つだろうな。わたしは、ただ、視えてしまうだけなのに』
それは、ぽつりぽつりと、語り始めた。
『わたしは、視すぎた。世界の理の裏側、人の心の奥底、見てはならぬものまで、すべて視えてしまった。……知りたくなかったことまで、知ってしまった。人の醜さも、未来の悲劇も、世界の終わりの形さえも』
無数の閉じた目が、かすかに震えた。
『視えすぎる者は、いずれ人でいられなくなる。わたしは、人であることを捨て、化け物になった。だから封じられた。"見てはならぬものを視る者"として、この森に、独りきりで』
『以来、わたしは、ずっと目を閉じている。視たくないからだ。これ以上、何も。……だが、閉じても、視えてしまう。だから、せめて、誰も近づかぬよう、この森に"見られている"恐怖を振りまいて、人を遠ざけてきた。……すまぬな。お前たちの領民を、怯えさせていたのは、わたしだ』
最後の言葉は、エルザに向けられていた。
エルザが、息を呑んだ。
※
「待って」
声を上げたのは、エルザだった。
さっきまで俺の腕にしがみついて震えていた令嬢が、一歩、前に出ていた。その目は、まっすぐに、社の妖を見つめていた。
「あなた……ずっと、独りだったの? この森で、ひとりぼっちで、何百年も……?」
『……ああ』
「視たくないものを、視続けて? 誰にも、理解されずに?」
『それが、わたしの業だ。仕方のないことだ』
「仕方なくなんて、ありませんわ!」
エルザの叫びが、森に響いた。
「視えてしまうのは、あなたのせいじゃない! それなのに、化け物だと封じられて、独りにされて……っ! そんなの、あんまりですわ!」
その目に、涙が滲んでいた。高慢ちきな令嬢が、見ず知らずの妖のために、本気で怒り、泣いていた。
俺は、その姿を見て、確信した。
(やっぱり、こいつだ)
エルザは、没落しても誇りを失わなかった。領民のために頭を下げることを厭わなかった。そして今、孤独な妖のために、自分のことのように涙を流している。
熱い心と、折れない芯。――見てはならぬものを視続けてなお、正気を保つために必要なのは、きっと、こういう強さだ。
「エルザ」俺は、彼女の肩に手を置いた。「一つ、頼みがある。聞いてくれるか」
「な、なんですの、こんなときに」
「あの妖を――喚び出す。だが、あれを宿せる器が要る。視えすぎる狂気に呑まれない、強い心を持った人間が。……お前に、できるか」
エルザは、目を見開いた。
「わ、わたくしに……?」
「お前にしか頼めない。お前は、強い。誰よりも、熱くて、折れない心を持ってる。――あの孤独な妖の、居場所になってやってくれないか」
エルザは、しばらく俺を見つめていた。
それから、ぐいと涙を拭い、胸を張った。いつもの、高慢ちきな仕草で。けれどその目は、まっすぐで、覚悟に満ちていた。
「……ふん。当然ですわ。このエルザ・フォン・グラナートに、できないことなどありませんもの。あの子を――独りになんて、させませんわ」
※
俺は、社の前に立ち、詠唱を始めた。
封じられたものを、引きずり出す。だが、それは祓うためじゃない。救うためだ。孤独な妖に、新しい居場所を与えるために。
社の文字が輝き、痩躯の妖が、光に包まれていく。
『……いいのか』妖の声が、揺れた。『わたしを宿せば、お前も視えるようになるぞ。視たくないものまで。世界の裏側を。……それは、苦しいことだ』
「望むところですわ!」エルザが、両腕を広げた。「視えるなら、視てやりますわ! あなたが独りで背負ってきたものを、これからは、わたくしも一緒に視ます! だから――もう、独りじゃ、ありませんわよ!」
妖の無数の目が、いっせいに――開いた。
森中の視線が、一点に収束する。光が膨れ上がり、痩躯の妖が、光の粒となって、エルザの中へ流れ込んでいった。
※
光が、収まった。
エルザが、ゆっくりと目を開ける。
その瞳は――変わっていた。紅色だった瞳の奥に、金色の輪が幾重にも浮かび、まるで無数の目が宿っているかのよう。そして、ぼろぼろの衣ではなく、凛としたエルザの背に、淡く、閉じた目の紋様が浮かんでは消えた。
「……視える」エルザが、呆然と呟いた。「すごい……森の隅々まで、視える。木の一本一本、虫の一匹まで……それに……」
エルザの目が、ふと、俺を見た。その瞳が、わずかに揺れる。
「ミスト……あなたの中に、なにか……とても、深いものが、視え……」
その瞬間、エルザは小さく呻いて、額を押さえた。
「いけませんわ……まだ、視きれない。あなたの奥にあるもの……大きすぎて、わたくしでも、視通せない……」
俺は、その言葉に、かすかな緊張を覚えた。
俺の中にある、深いもの。羅睺も言っていた、俺自身も知らない、召喚適性の根源。それを、闇御目を宿したエルザですら、まだ視通せない――。
『よせ、娘』羅睺が、静かに言った。『その男の奥を覗くのは、まだ早い。視る覚悟も、視られる覚悟も、互いに、足りておらぬ。――時が来れば、おのずと視える』
エルザは、こくりと頷き、額から手を離した。それから、ふっと表情を緩めて、微笑んだ。
「……でも、一つだけ、視えましたわ。ミスト、あなた――本当は、すごく優しい人ですのね。封じられたものたちを、ぜんぶ、救いたいって思ってる。……ふふ、不器用なくせに」
「……余計なことを視るな」
「あら、視えてしまうんですもの。仕方ありませんわ!」
エルザが、いつもの調子で、楽しげに笑った。
その背後で、彼女の中に宿った妖――闇御目の気配が、穏やかに、安らいでいるのを感じた。長い孤独を終え、ようやく、独りではなくなった者の、安堵のように。
※
こうして、俺は四人目の仲間――そして、フレアに続く二人目の「人に宿った召喚獣」を得た。
夜叉・羅睺。炎のフレア(カルラ)。巨狼・ヴァナ。そして、万の目を宿したエルザ(闇御目)。
帰り道、エルザは「視える」力に大はしゃぎで、「あの木の上に鳥の巣が三つ!」「フレア、あなた昨日のお菓子をこっそり食べたでしょう、視えましてよ!」「な、なんで分かるの!?」と、さっそく賑やかにやっていた。
その光景を眺めながら、俺は、ふと考えた。
俺の中にある、エルザですら視通せない、深いもの。
それが何なのか――俺は、まだ知らない。
だが、その答えに近づく日が、少しずつ、迫ってきている。そんな予感がしていた。




