第16話 世界の綻び
アルカとの、夢の対話から、三日。
世界の異変は、誰の目にも明らかな形で、加速し始めていた。
「ミスト、これを見て」
エルザが、一枚の地図を広げた。彼女が闇御目の力で書き起こした、世界の"綻び"の分布図だった。各地に、赤い印が散らばっている。封印が破られ、厄災が解き放たれた場所だ。その数は、日を追うごとに、増えていた。
「最初は、ぽつぽつと、点でしたの」エルザの声は、硬かった。「でも、今は……ほら、これ。点と点が、線で繋がり始めている。まるで、世界中の綻びが、一つの"模様"を、描こうとしているみたいに」
俺は、地図を覗き込んだ。
確かに、赤い印は、無秩序に散らばっているわけではなかった。それらは、大きな円を描くように、配置されていた。そして、その円の――中心に。
「ここは……」
「世界の、へそ。古い文献では、"始まりの地"と呼ばれていますわ」エルザが、円の中心を指さした。「世界が、最初に形を持った場所。封じる力と、解き放つ力が、初めて釣り合った場所……だと、闇御目が、囁いていますの」
『……そこが、アルカの目指す場所だな』
人型の羅睺が、地図を見下ろして、言った。
『世界中の綻びを、円を描くように集め、その中心――始まりの地で、すべてを封じる。世界を、無に還すための、巨大な"封印陣"。それを、奴は、世界そのものを使って、描こうとしている』
「……あと、どれくらいで、完成する」
エルザは、闇御目を凝らし、そして、苦しげに、告げた。
「……七日。七日後に、円が閉じますわ。そうなれば、アルカの封印陣が、起動する。世界は――終わります」
※
七日。
それが、世界に残された、時間だった。
俺たちは、すぐに動き出した。始まりの地へ向かう準備。アルカと戦うための、態勢。だが――焦りは、なかった。むしろ、拠点は、不思議な静けさに、包まれていた。
決戦の前夜。
俺は、拠点の屋上で、夜空を見上げていた。星が、いつもより、儚く見えた。世界が、終わりに向かっているからだろうか。
「……眠れないの?」
フレアが、隣に来て、座った。金色の獣耳が、夜風に揺れている。
「ああ。お前も、か」
「うん」フレアは、膝を抱えた。「ねえ、ミスト。あたし、考えてたんだ。もし、あたしが、あのまま奴隷市で、誰にも買われなかったら。ミストに、拾われなかったら。……あたし、今頃、どうなってたんだろうって」
俺は、黙って、聞いていた。
「きっと、出来損ないのまま、誰にも必要とされないまま、消えてたと思う。カルラのことも、知らないまま。自分の中に、こんなすごい炎があるなんて、気づかないまま」フレアは、自分の手のひらに、小さな炎を灯した。「でも、ミストが、見つけてくれた。あたしの、本当の価値を。だから――あたし、今、すごく、生きてるって感じがするんだ」
フレアは、俺を見て、微笑んだ。
「だから、あたし、戦うよ。この世界を、守るために。だって、この世界は――あたしに、居場所をくれた、世界だもん」
※
屋上から降りると、エルザが、お茶を淹れていた。
「あら、ミスト。眠れませんの? ……ふふ、わたくしもですわ」
二人で、温かいお茶を飲んだ。
「ねえ、ミスト」エルザが、カップを両手で包みながら、ぽつりと言った。「わたくし、没落して、何もかも失ったとき、本当に、惨めでしたの。誇りだけが、残った。でも、その誇りも、ただの、強がりでしたわ」
エルザの瞳の奥で、闇御目が、静かに揺れた。
「でも、あなたに出会って、闇御目を宿して……わたくし、初めて、誰かの役に立てましたの。視る力で、みんなを、守れる。導ける。――没落令嬢の、ただのプライドが、本物の、誇りに変わりましたわ」
エルザは、ふっと、微笑んだ。いつもの高慢ちきな笑みではない、柔らかな笑顔だった。
「あなたが、わたくしを、変えてくれた。だから――わたくしも、戦いますわ。この世界と、あなたの、未来のために。……ふん、感謝なさい!」
最後だけ、いつものエルザに戻った。俺は、思わず、笑った。
※
中庭では、ヴァナが、夜空を見上げていた。
巨狼の姿で、静かに、月を眺めている。俺が近づくと、ヴァナは、ちらりと、こちらを見た。
『……縁の子か』
「眠れないのか、ヴァナ」
『獣に、眠れぬ夜などない。ただ――少し、考えていた』ヴァナの声は、穏やかだった。『我は、かつて、世界を喰らうと予言された。世界を、終わらせる獣だと。そして今、世界を、終わらせようとする者と、戦おうとしている』
ヴァナは、ふっと、喉を鳴らした。笑ったのだ。
『皮肉なものだ。世界を喰らうはずだった我が、世界を守るために、牙を振るう。……だが、悪くない。これが、我が自ら、選んだ生き方だ。予言などではなく。――ミスト、お前が、くれた道だ』
ヴァナは、立ち上がり、俺に、頭を擦り寄せた。氷のようだった毛並みは、もう、温かかった。
『お前の隣で、戦えることを、誇りに思う。それだけは、言っておきたかった』
※
最後に、俺は、羅睺のもとへ行った。
人型の羅睺は、拠点の縁側で、月見酒のように、静かに座っていた。
「羅睺」
『来たか、縁の子』羅睺は、隣を、ぽんと叩いた。俺は、その隣に、座った。
しばらく、二人で、月を眺めていた。
『……縁の子。我は、お前に、最初に喚ばれた者だ』羅睺が、ぽつりと言った。『あのとき、お前は、安物の触媒しか持たぬ、みすぼらしい召喚士だった。だが、我を、喚べた。封じられ、忘れられていた、この夜叉を』
羅睺の瞳が、遠くを見た。
『我は、長い間、封印の中で、独りだった。罰なのか、庇護なのかも、分からぬまま。だが、お前が、我を、外に出してくれた。そして――居場所を、くれた。フレアがいて、エルザがいて、ヴァナがいて、騒がしい、温かい、居場所を』
『縁とは、不思議なものだ』羅睺が、微笑んだ。『お前は、我を"縁の子"と呼ばれる側にしてくれた。我は、お前との縁を、心から、誇りに思う』
羅睺は、立ち上がり、俺を見下ろした。その瞳に、いつもの、飄々とした光が戻った。
『さあ、湿っぽい話は、終わりだ。明日からは、世界を懸けた、大戦よ。――我が、全力で、お前を、勝たせてやろう。覚悟して、ついて来い、縁の子』
※
そして、決戦の朝が、来た。
拠点の前に、俺たちは、集まった。
フレア。エルザ。ヴァナ。羅睺。そして、俺の影に棲む、イア。
封じられ、忘れられ、捨てられ――それでも、もう一度、生きることを選んだ者たち。勝手に決められた価値を、覆し合った、仲間たち。
リタをはじめ、ハルバの町の人々が、見送りに来てくれた。
「ミスト! 絶対、帰ってきてね!」「あんたなら、できる!」「あたしたちの、辺境の守り神なんだから!」
その声援に、俺は、静かに、頷いた。
「行ってくる。――この世界を、守るために」
俺は、仲間たちを、見渡した。
「みんな、聞いてくれ。これから、俺たちは、世界の秩序そのものと、戦う。勝てるかどうかは、分からない。でも――」
俺は、まっすぐ、前を見た。
「俺は、信じてる。封じられたものにも、生きてるものにも、ちゃんと居場所がある世界の方が、終わった世界より、ずっといいって。だから、戦う。この世界を、終わらせないために」
「「「――おう!」」」
仲間たちの声が、辺境の空に、響いた。
俺たちは、始まりの地へ向けて、歩き出した。
世界の存続を懸けた、最後の戦いへ。
七日後に閉じる、終わりの円を、止めるために。




