第13話 影に棲むもの
それは、ハルバの空が、昼なのに翳った瞬間から始まった。
「……っ、来ましたわ!」
エルザが、弾かれたように叫んだ。闇御目の瞳が、かっと見開かれる。
「ヴェルダンの、あの気配……! 黒幕が、ハルバに……いえ、この拠点に、直接来ていますの!」
次の瞬間、拠点の中庭に、それは"現れた"。
転移でも、飛来でもない。ただ、空間が裂けるように、そこに立っていた。
黒いローブを纏った、人型。だが、フードの奥に、顔はなかった。あるのは、底のない闇。星一つない夜空のような虚無が、そこにぽっかりと口を開けている。手にした杖の先には、古い封印の呪――俺たちがいくつも見てきた、あの梵字に似た文字が、禍々しく刻まれていた。
『――やあ』
声は、奇妙に穏やかだった。
『はじめまして、かな。それとも――おかえり、と言うべきかな。ミスト』
「……お前が、封印を破って回ってる黒幕か」
『そう呼ばれるのは、心外だね』黒衣の存在は、ゆるりと首を傾げた。『私はただ、"還して"いるだけだよ。封じられたものたちを、本来あるべき姿に。世界を、本来あるべき形に。――そのために、邪魔な君を、消しに来た』
※
戦いは、一瞬で始まった。
『羅睺!』『ヴァナ!』
俺が呼ぶより早く、二体が動いていた。羅睺の業火と、ヴァナの牙が、同時に黒衣へ襲いかかる。これまで、どんな魔物も厄災も、一撃で屠ってきた二体の攻撃。
だが――黒衣は、避けなかった。
業火が、牙が、その体を貫いた。手応えはあった。確かに、捉えた。
なのに。
『……無駄だよ』
黒衣の体は、まるで影のように、攻撃をすり抜けさせていた。傷一つ、ついていない。
『君たちは、"封じられたもの"。私は、それを"封じる側"。――格が、違うのだよ』
黒衣が、杖を一振りした。
その瞬間、羅睺とヴァナの体が、ぐにゃりと歪んだ。二体が、苦悶の声を上げる。
『ぐ……っ、これは……!』羅睺が、膝をついた。『封印の、呪……! 我らを、また、封じようと……!』
「羅睺!」
俺は、愕然とした。あの羅睺が、ヴァナが、手も足も出ない。それどころか、再び封じられかけている。
「フレア!」
「うん!」
フレアがカルラの炎を放つ。黄金の業火が、黒衣を包んだ。だが――それすらも、影のように、すり抜ける。
『言ったろう。格が違う、と』
黒衣が、フレアの方へ、ゆらりと杖を向けた。
「フレア、避けろ!」
間に合わない。封印の呪が、フレアへと放たれる。フレアの体が、ぐにゃりと歪み始める。カルラの炎が、消えかける。
「あ……っ、ミスト……! 体が……!」
※
俺は、駆け出していた。
考えるより、体が動いていた。フレアの前に、割って入る。封印の呪が、俺の体を襲う――。
だが。
呪は、俺に届かなかった。
俺の足元の影が、ぐにゃりと、蠢いたのだ。
黒い染みのようなものが、影から滲み出し、封印の呪を――"喰った"。音もなく、跡形もなく。まるで、最初から何もなかったかのように。
黒衣の存在が、初めて、動きを止めた。
『……なに?』
俺の影から、それは、ゆっくりと立ち上がってきた。
形が、ない。あえて言うなら、黒い靄。視界の端でだけ蠢く、"何か"。見つめようとすると、ぐにゃりと認識が歪み、頭の奥が痛む。だが、確かに、そこにいる。俺の影の中から、這い出してきた、何か。
「……お前は」
俺は、呆然と呟いた。こんな存在を、俺は喚んだ覚えはない。なのに――こいつは、ずっと、俺の影の中にいた。いつから? なぜ?
『縁の子……!』膝をついた羅睺が、掠れた声を上げた。『その影に潜むもの……我ですら、気配を感じ取れなかった……! いつから、お前の影に……!?』
エルザが、闇御目を見開いて――そして、悲鳴のように叫んだ。
「だめ、視てはいけませんわ……! その存在、視ようとすると……っ、意識が、持っていかれ……!」
エルザが、よろめいて、膝をついた。万の目を持つ闇御目ですら、その存在を直視できない。世界の理の、さらに外側。神話にも、妖怪にも、分類されない。世界が形を持つより前から、虚空に在ったもの。
それが今、俺の影から這い出して、黒衣の前に、立ちはだかっていた。
※
黒衣の存在が、初めて、後ずさった。
『……ありえない。なぜ、"それ"が、ここにいる。それは、世界の理の蓋。決して、目覚めぬはずの……!』
その声に、初めて、動揺が滲んでいた。
影の靄――名を持たぬ、それは、言葉を発さなかった。意思の疎通も、できない。ただ、黒衣の方へ、ゆらりと、一本の触手のようなものを伸ばした。
その瞬間。
黒衣の体が、ビキリと、音を立てた。
『……っ、ぐ……!? なぜ……私の封印が……効かない……いや、逆だ……"解かれて"いる……!?』
ウムが触れた箇所から、黒衣の体が――ほどけていく。封印を司るはずの存在が、自らの存在を、逆に解かれていく。それは、黒衣が羅睺たちにやろうとしたことの、完全な逆。封じる者を、さらに上位の何かが、解いていく。
『ありえない……! 私は、封じる者……! 世界の秩序そのもの……! それを、解くなど……!』
黒衣が、悲鳴を上げた。そして、自らの体が完全にほどける寸前――。
『……今日は、引こう』
黒衣は、空間の裂け目へと、身を躍らせた。
『だが、ミスト。覚えておくといい。君が、"それ"を従えているという事実……それこそが、君が何者であるかの、証だ。君は――私と、同じ側の存在なのだよ。いずれ、君自身が、それを思い知る』
そう言い残して、黒衣は、闇の中へ消えていった。
戦いは――辛うじて、終わった。
※
黒衣が消えると、影の靄は、何事もなかったかのように、するりと、また俺の影の中へ戻っていった。
まるで、最初から、ただの影だったかのように。
「……なんだったんだ、今のは」
俺は、自分の足元の影を見下ろした。さっきまで、世界を解きほぐすほどの何かが、そこから現れたとは、とても思えない。普通の、ただの影だった。
『縁の子』羅睺が、ゆっくりと立ち上がりながら、深刻な声で言った。『あれは……お前が喚んだものでは、ないな』
「ああ。俺は、あんなものを喚んだ覚えはない」
『だが、あれは、お前の影に棲んでいた。おそらく――ずっと、昔から。お前が生まれたときから、かもしれぬ』羅睺の瞳が、俺を見据えた。『そして、あの黒衣を、退けた。封じる者すら、解きほぐす力で。……縁の子。お前は、本当に、何者なのだ』
俺は、答えられなかった。
エルザが、ふらつきながら、俺に近づいた。その瞳の奥で、無数の目が、怯えたように揺れていた。
「ミスト……さっき、あの黒衣が、言っていましたわ。"君は、私と同じ側の存在だ"、と」エルザの声が、震えた。「そして、わたくし……視てしまいましたの。ほんの一瞬、あの影の存在が現れたとき……あなたの奥にある、"深いもの"の、輪郭を」
「……何が、視えた」
エルザは、しばらく躊躇った。それから、意を決したように、口を開いた。
「あなたの中には……あの黒衣と、同じ気配が、ありますわ。封印を司る、世界の秩序の、気配が。――でも、それだけじゃ、ありませんの。あなたの中には、その秩序を、"解きほぐす"側の気配も、同時にある。封じる者と、解き放つ者。相反する二つが……あなたの中で、一つに、なっていますの」
俺は、息を呑んだ。
封じる者と、解き放つ者。表裏一体の、二つの力。それが、俺の中に、同時にある。
「ミスト、あなたは……」エルザが、掠れた声で言った。「もしかしたら……ただの召喚士では、ないのかもしれませんわ。あなたは――この世界の、"封印"そのものに、関わる存在……」
その言葉は、夕暮れの中庭に、重く、落ちた。
俺が、何者なのか。なぜ、禁忌を喚べるのか。なぜ、影に、世界の理の外の存在が棲んでいるのか。なぜ、黒衣の黒幕が、俺を"同じ側"と呼ぶのか。
すべての謎が、一つの問いに、収束しようとしていた。
――俺は、何のために、生まれたのか。
その答えを知る日が、もう、すぐそこまで、迫っていた。




