第12話 最初の厄災
報せは、突然だった。
ハルバから南へ三日。隣接する領地の街・ヴェルダンが、一夜にして壊滅したという。
「街が……燃えてるって……」報せを持ってきた商人は、青ざめていた。「いや、燃えてるんじゃねえ。"溶けてる"んだ。城壁も、家も、人も……ぜんぶ、どろどろに……。生き残った奴は、口を揃えて言う。"地の底から、何かが這い出してきた"って……」
エルザの顔が、強張った。彼女は、すっと目を閉じ、闇御目の力を遠くへ伸ばした。
「……視えますわ」その声が、震えた。「ヴェルダンの地下に、古い封印があった。それが――破られてる。中にいたものが、外に出て……街を、溶かしていますわ」
「どんな奴だ」
「視きれません。形が、定まっていないんですの。ただ、ひどく――"苦しんで"いますわ。怒りと、混乱と、苦痛で、我を失っている。理性なんて、どこにもない。ただ、暴れて、壊して、溶かしているだけ……」
俺は、すぐに決めた。
「行くぞ。ヴェルダンへ」
※
ヴェルダンは、地獄だった。
かつて街だったものが、見渡す限り、灰色のぬかるみに沈んでいた。建物は溶け崩れ、街路は泥のように波打っている。鼻を突く、酸のような臭い。そして、その中心に――それは、いた。
巨大な、不定形の塊。
人とも獣とも、何ともつかない。粘液のような体を絶えず蠢かせ、無数の腕のようなものを伸ばし、触れたものすべてを溶かしていく。その表面には、いくつもの顔が浮かんでは消えた。苦悶に歪んだ、人間のような顔が。
『……ァ……ァァ……痛い……痛イ……』
塊から、声が漏れていた。言葉になりきらない、ただの苦痛の呻き。
「あれは……」フレアが、息を呑んだ。
『……封じられた、古い禍つ神の成れの果てよ』羅睺が、苦々しげに言った。『見ろ、縁の子。あれは元々、もっとまともな"格"を持っていた存在だ。だが――無理やり封を破られ、長い眠りから叩き起こされたせいで、正気を失っている。器も、心も、保てなくなり、ああして溶け崩れているのだ』
それは、俺が恐れていた、最悪の形だった。
ヴァナやカルラ、闇御目は、俺と縁を結び、自ら望んで目覚めた。だから、正気を保てた。居場所を得て、安らげた。
だが――こいつは違う。誰の手も借りず、ただ封を破られ、放り出された。怒りと苦痛のまま、何が起きているかも分からず、ただ暴れ、壊し、溶かしている。
救いの、ない姿だった。
「エルザ。あれを、鎮める方法は」
「……視ますわ」エルザが、闇御目を凝らした。やがて、苦しげに首を振った。「だめですわ。もう、手遅れですの。あの存在の"核"は、完全に砕けている。元の理性も、人格も、戻りません。……できるのは、ただ――"終わらせて"あげること、だけですわ」
※
俺は、塊を見上げた。
『痛イ……痛イ……ナゼ……ナゼ、起コシタ……眠ラセテ……モウ、眠ラセテクレ……』
その呻きが、胸を抉った。
こいつは、被害者だ。封じられ、忘れられ、そして、誰かに無理やり叩き起こされ、苦しみ続けている。本当なら、ヴァナのように、救えたかもしれない存在。居場所を、与えられたかもしれない存在。
だが――もう、間に合わない。
「……分かった」
俺は、静かに告げた。
「羅睺、ヴァナ。あれを、止める。だが――嬲るな。苦しめるな。一撃で、終わらせてやってくれ。あいつが、これ以上、痛がらなくて済むように」
『……承知した』羅睺の声が、低く沈んだ。『あれは、我らの同胞だったやもしれぬ者。せめて、安らかに送ってやろう』
ヴァナが、巨狼の姿に戻った。羅睺が、忿怒の相を纏う。
二体が、同時に動いた。
ヴァナの牙が、塊の動きを縫い止める。そして羅睺が、四本の腕に集めた業火を――その"核"へと、まっすぐに撃ち込んだ。
慈悲の、一撃だった。
塊が、びくりと震えた。そして――溶け崩れていた体が、ゆっくりと、崩れていく。最後に、表面に浮かんだ苦悶の顔が、ふっと、安らいだ表情に変わった気がした。
『……アア……ヨウヤク……眠レル……』
そう呟いて、それは、灰になって、風に散った。
ヴェルダンの厄災は、終わった。
だが――誰も、勝った気には、なれなかった。
※
灰の積もる廃墟で、俺たちは、しばし沈黙していた。
「……ねえ、ミスト」フレアが、ぽつりと言った。「あの子……あたしや、ヴァナや、闇御目と、おんなじだったんだよね。封印されてて。本当は……助けられたんだよね」
「……ああ」
「なんで……なんで、誰かが、無理やり起こしたの? あんなに、苦しむって、分かってたはずなのに……!」
フレアの目に、涙が滲んでいた。俺には、答えられなかった。
そのとき。
エルザが、はっと顔を上げた。闇御目の瞳が、かっと見開かれる。
「ミスト……! 視えましたわ……! あの封印を破った、"気配"の残り香が……!」
「誰だ」
「分かりません……顔も、姿も、巧妙に隠されている。でも――意図は、視えますわ」エルザの声が、緊張に震えた。「これは、偶然じゃ、ありませんの。誰かが、"わざと"、世界中の封印を破って回っている。封じられた存在を、無理やり叩き起こして……正気を失わせ、厄災として、解き放っている……!」
「……何のために」
「分かりません。でも――」
エルザは、俺を見た。その瞳の奥で、無数の目が、不安げに揺れていた。
「その"気配"……ヴェルダンの封印を破ったあと、こう、考えていましたわ。――"次は、辺境の召喚士のところだ"、と」
俺は、息を呑んだ。
「俺を……狙ってるのか?」
「正確には……あなたの力を、ですわ」エルザが、ぐっと拳を握った。「あの気配は、あなたのことを、知っている。"封じられたものを喚び、救える唯一の存在"だと。そして、それを――"邪魔だ"と、思っていますの」
※
その夜、ハルバへの帰り道。
俺は、夜空を見上げながら、考えていた。
世界中の封印を、わざと破って回る何者か。封じられた存在を、苦痛のまま厄災として解き放つ、悪意。そして、それが――俺を、狙っている。
なぜ、俺なのか。
『……縁の子』隣を歩く羅睺が、静かに言った。『お前は、まだ気づいておらぬのか。なぜ、お前にだけ、禁忌を喚ぶ力があるのか。なぜ、その黒幕が、お前を恐れるのか』
「……羅睺。お前、何か知ってるのか」
羅睺は、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと口を開いた。
『確証はない。だが――お前の力の根源は、おそらく、この異変の"核心"と、同じ場所にある』
その瞳が、夜の闇よりも深い色を湛えた。
『封印を司る力と、封印を解く力。封じる者と、解き放つ者。――それは、表裏一体。同じ根から、生まれたもの。お前と、その黒幕は……おそらく、同じ"何か"に、繋がっている』
俺は、足を止めた。
俺自身も知らない、俺の力の根源。エルザですら視通せなかった、俺の奥の深いもの。それが――この世界の異変の、核心と繋がっている。
「……俺は、何者なんだ」
その問いに、答える者は、まだ、いなかった。
ただ、夜風だけが、灰の匂いを乗せて、静かに吹き抜けていった。
最初の厄災は、終わった。
だが、これは――長い戦いの、ほんの始まりに過ぎなかった。




