第11話 堕ちた聖女
その女が辺境にやってきたのは、雨の日だった。
拠点の扉を叩く音は、弱々しかった。エルザが開けると、そこにずぶ濡れの女が立っていた。すり切れた外套を纏い、頬はやつれ、かつての輝きは見る影もない。
それでも、俺はその顔を、忘れるはずがなかった。
「……ミスト」
聖女ミラ。幼馴染で――俺の追放に、保身で頷いた女だった。
「久しぶり、だね」ミラは、震える声で言った。「あなたが、辺境で、すごい召喚士になってるって……噂を聞いて。それで……」
エルザが、すっと俺の前に立った。闇御目の瞳が、冷たくミラを射抜く。
「ミスト。この方は?」
「……昔の、知り合いだ」俺は短く答えた。「入れてやってくれ。雨に濡れてる」
※
火にあたり、温かい茶を飲んで、ミラは少しだけ落ち着いたようだった。だが、その目に宿る怯えと疲労は、簡単には消えなかった。
ぽつり、ぽつりと、ミラは語り始めた。
俺が追放されたあと、銀翼の剣は崩れていった。それは、もう知っている。だが、崩れたのはパーティだけではなかった。
「私の……聖女としての力も、衰えていったの」
ミラは、自分の手のひらを見つめた。
「最初は気づかなかった。でも、だんだん、回復魔法が効かなくなって、聖なる加護も、薄くなって……教会は、私を見限った。"聖女の資格なし"って。地位も、信仰も、ぜんぶ、失った」
俺は、その話を黙って聞いていた。
ミラの聖女の力。それが衰えた理由に、俺は薄々、心当たりがあった。
聖女の力の源は、信仰と――そして、それを支える"場"だ。かつて俺は、ミラのために、こっそりと小さな使い魔を配して、彼女の周囲の魔の気配を浄め、加護が働きやすい環境を整えていた。彼女自身も、誰も、それに気づいていなかった。索敵と同じだ。俺の地味な召喚は、いつも、誰かの足元を支えていた。
それがなくなれば、ミラの力が翳るのも、道理だった。
だが――それを、今さら言う気は、なかった。
「ミスト」ミラが、すがるように俺を見た。「お願い。私を、あなたのそばに置いて。あなたといれば、私……また、力を取り戻せるかもしれない。昔みたいに、二人で……」
「悪いが」
俺は、静かに、けれどはっきりと、遮った。
「それはできない」
ミラの顔が、強張った。
「……どうして。私たち、幼馴染でしょう? 一緒に冒険者になろうって、約束したじゃない」
「その約束を、先に破ったのはお前だ」
俺の声に、怒りはなかった。ただ、乾いた事実だけがあった。
「俺がパーティを追われたとき、お前は俺を見捨てた。"アレクの言う通りだ"と。"あなたといても先に進めない"と。――覚えてるか?」
ミラが、言葉を失った。
「俺は、あのとき、お前に何も期待しなくなった。恨んじゃいない。もう、どうでもいいんだ。お前のことも、アレクのことも、銀翼の剣のことも。――全部、終わったことだ」
「そんな……」ミラの目に、涙が溢れた。「ひどい……っ。私が、こんなに、苦しんでるのに……!」
「苦しんでるのは、お前だけじゃない」
俺は、傍らの仲間たちを見た。フレア。ヴァナ。エルザ。羅睺。みんな、勝手に決められた価値で、居場所を奪われた者たちだ。
「ここにいる連中は、みんな、理不尽に捨てられた。それでも、誰かを恨むより、前を向くことを選んだ。お前を助けないのは、罰じゃない。ただ――お前の居場所は、もう、ここにはないってだけだ」
※
ミラは、しばらく俯いていた。
やがて、ゆっくりと立ち上がり、濡れた外套を羽織った。
「……分かった。私が、馬鹿だった」
その声は、不思議と、少しだけ晴れていた。
「あなたを見捨てたこと……ずっと、後悔してた。でも、それを、あなたに償わせようとしてた。甘えてた。……ごめんなさい、ミスト。それだけは、言いたかった」
ミラは、扉に手をかけ、振り返った。
「最後に、一つだけ。聖女だった頃の、勘で言うんだけど……」
その目に、聖女としての、最後の鋭さが宿った。
「世界が、おかしいの。各地の聖地で、封印が緩んでる。教会も、それに気づいて、混乱してる。……あなたが従えてるような"封じられた存在"が、世界中で、目を覚まそうとしてる。ミスト、あなたの力は、きっと、その中心に関わってる。気をつけて」
そう言い残して、ミラは雨の中へ消えていった。
俺は、その背中を、最後まで引き止めなかった。
※
「……よろしかったの?」
ミラが去ったあと、エルザが静かに尋ねた。
「あの方、あなたの幼馴染なのでしょう。それに、本当に、反省しているように視えましたわ。闇御目の目には、嘘は映りませんもの」
「ああ。反省してるのは、本当だろうな」俺は頷いた。「でも、反省と、許しは、別だ。それに――」
俺は、窓の外を見た。
「あいつには、あいつの道を、自分で見つけてほしい。俺に縋ってる限り、あいつは前に進めない。突き放すのが、たぶん、最後の優しさだ」
エルザは、しばらく俺を見つめて、それから、ふっと微笑んだ。
「……あなたって、本当に、優しいのか冷たいのか、分かりませんわね」
「どっちでもないさ」
「ふふ。まあ、いいですわ。――でも」
エルザの表情が、ふと、引き締まった。
「あの方の言葉、気になりますわね。世界中で、封印が緩んでいる。……わたくしの闇御目が視ていた"嫌な気配"と、符合しますわ」
その夜、俺は仲間たちを集めた。
羅睺、ヴァナ、フレア、エルザ。封じられ、忘れられ、そして俺と縁を結んだ者たち。
「みんな、聞いてくれ」俺は言った。「世界中で、封印が緩み始めてる。お前たちみたいに、封じられた存在が、目を覚まそうとしてるらしい。――それも、たぶん、穏やかな目覚めじゃない」
『……ふむ』羅睺が、腕を組んだ。『我らは、お前と縁を結び、自ら望んで目覚めた。だが、無理やり封を破られ、解き放たれる者は――おそらく、正気ではいられまい。怒りと混乱のまま、世界に牙を剥くだろう』
「ああ。だから――」
俺は、仲間たちを見渡した。
「俺たちで、止める。誰かが理不尽に解き放たれて、暴れて、また討たれて……そんな繰り返しを、止めたい。封じられた連中にも、お前たちみたいに、ちゃんと居場所が見つかるように」
フレアが、こくりと頷いた。エルザが、誇らしげに胸を張った。ヴァナが、静かに尻尾を揺らし、羅睺が、楽しげに口角を上げた。
異変は、すぐそこまで、迫っていた。
そして、その中心に――俺自身の、まだ知らない秘密が、横たわっていることを。
このとき、俺は、ようやく自覚し始めていた。




