第094話 正妃様は、わたくしを王家へ迎える準備を始めてしまいましたわ
王宮から財務局へ戻った私は、いつもの執務机に座るなり、積み上げられた書類へ目を向けた。窓の外では午後の鐘が鳴り、財務局の廊下を行き交う事務官たちの足音が絶え間なく聞こえている。ここへ戻ってくると、ようやく自分の場所へ帰ってきた気がした。王宮でどれほど立派な話を聞かされても、私が心から落ち着けるのは、数字の並んだ書類と、次に処理すべき案件が待っているこの机の前なのだ。私はペンを取り、決裁書へ視線を落とす。
これで終わった。
そう思いたかった。
レナート殿下は、もう私との婚姻を望まないと言ってくださった。ヘレナ妃も、私が何を望んでいるのか理解してくださったはずだ。だから、これ以上は何も起こらない。そう自分へ言い聞かせながら最初の書類へ印を押した、そのときだった。
「セレスティーナ様!」
慌ただしい足音とともに、事務官の一人が駆け込んできた。普段なら、財務局の人間がこれほど慌てた様子で私の執務室へ入ってくることなどない。私はペンを置き、顔を上げる。
「どうしましたの?」
「王宮から書類が届いております。ただ、通常の決裁書類ではありません」
「私宛てですの?」
「はい。それも、正妃殿下からです」
嫌な予感がする。
私は差し出された封筒を受け取り、封蝋を確認すると、そこには、間違いなくヘレナ妃の紋章が刻まれている。封を切って中身を取り出すと、そこには一枚の正式な文書が入っている。私は最初の数行を読んだところで、思わず眉を寄せた。
「……何ですの、これ?」
「どうされましたか?」
「王家直属財政顧問補佐官……?」
その肩書きを、私はもう一度読み直した。王族に仕える特別職として、王家の財政案件に直接関与する権限を与える。その任命候補者として、私の名前が記されている。しかも、財務局での職務を維持したまま兼任できるようにする、とまで書かれていた。
こんな話は聞いていない。
「……勝手に、話を進めましたわね」
私の胸に、先ほどまでとは違う緊張が生まれていた。これは提案ではない。まだ正式な任命ではないとしても、すでに王宮側で手続きが動き始めている。つまり、ヘレナ妃は私へ選択肢を提示しただけではなかったのだ。私が王家へ入るための道そのものを、先に作り始めている。
「……これは、少し困りましたわね」
その日の夕刻、私は再び王宮へ呼ばれた。今度の場所は、以前の談話室ではない。王宮西棟の政務室だった。そこには数名の侍従と文官がおり、机の上には私の任命に関する書類が何冊も並べられていた。私は室内へ入った瞬間、その異様な光景に足を止めた。ヘレナ妃は中央の席に座り、私を見ると穏やかに微笑んだ。
「来てくれたのね、セレスティーナ」
「お呼びいただきましたので」
「あなたに見せたいものがあるの」
「すでに拝見いたしました。王家直属財政顧問補佐官の件です」
「ええ」
「これは、私が了承した覚えがございません」
「まだ了承を取っていないもの」
「……それでは、どうしてここまで準備が進んでおりますの?」
私が尋ねると、ヘレナ妃は少しも動じない。むしろ、私がそう聞くことを予想していたようだった。
「あなたが断ると思ったからよ」
「でしたら、なぜ?」
「断られる前に、必要なものを整えておけばいいと思ったの」
ヘレナ妃は椅子から立ち上がり、机の上に並んだ書類を一枚ずつ指で示していく。
「これは財務局との兼務を認めるための案。こちらは王宮内の財政資料への閲覧権限。そして、こちらは王族に準じる警護を付けるための申請書よ」
「私に、そこまでの権限を?」
「そうよ」
「なぜですの?」
「あなたを王家へ近づけるためよ」
「レナート殿下は、もう私との婚姻を望んでおられません」
「知っているわ」
「それでも、ですか?」
「それでもよ。レナートがあなたを諦めたからといって、あなたの価値が変わったわけではないでしょう。私はあなたを王家へ迎えたいと思っている。その考えを変えるつもりはないわ」
「ですが、私は望んでおりません」
「知っているわ」
「それなら!」
「だから、今度はあなたが断れないようにするのではなく、断る理由そのものを減らすのよ。財務局を辞めろとは言わない。家族と離れろとも言わない。あなたの仕事も、権限も、今の生活もできるだけ残す。そのうえで王家の仕事にも関わってもらう」
「それは……」
「王族になることだけを求めているわけではないの。あなたが王家へ関わることに慣れれば、いつか考えが変わるかもしれないでしょう?」
それは優しさに見える。
だが、同時に強引である。
私が返事をする前に、すでに周囲の人間が動き始めている。私のための職位を作り、権限を整え、王宮で働く場所まで用意している。ここまでされれば、ただ「嫌です」と言って終わらせることは難しい。
「妃殿下」
「何かしら」
「これは、私の意思を尊重してくださっているのでしょうか」
「……しているつもりよ」
「でしたら、私が断った場合、この書類はすべて破棄してくださいませ」
「それは……」
「私が望まないものを、私のためだからという理由で勝手に準備されることも、私は望んでおりません」
ヘレナ妃は何も言わなかった。私は胸の奥で静かに息を整える。以前なら、ここまで言えなかっただろう。相手が王族だからと遠慮し、自分の考えを飲み込んでいたと思う。
でも、もう違う。
「私は、王国のためなら働きます」
「……ええ」
「必要とされる仕事なら、どれほど大変でも引き受けますわ」
「分かっているわ」
「ですが、私の人生をどうするかだけは、私自身に決めさせてください」
ヘレナ妃は私を見つめ、やがて、ゆっくりと椅子へ腰を下ろす。
「……本当に頑固な子ね」
「よく言われます」
思わずそう返すと、妃殿下の口元が僅かに緩んだが、その目から諦めの色が消えたわけではなかった。
「分かったわ。今日は、これ以上あなたへ迫らない」
「ありがとうございます」
「ただし、この案そのものを捨てるとは言っていないわ」
「……妃殿下」
「あなたが望むかどうかとは別に、王国にとって必要な制度なら整えておくべきでしょう?」
確かに、理屈だけなら間違ってはいない。
だが、この人は絶対に諦めていない。
そのことだけは、はっきり分かった。
「陛下には、私から話しておくわ」
「私の件を、ですか?」
「ええ。今度は王命をお願いするためではないわ。あなたを王家へ迎えるために、他にどんな方法があるのか相談するのよ」
私は思わず天井を仰ぎそうになってしまった。終わったと思っていた話が、また別の形で動き始めているのだから。しかも今度は、ヘレナ妃自身が動いてしまった。
「……本当に、諦めてくださいませんのね」
「ええ、私は、あなたを王家へ迎えることを諦めないわ」
どうやら私は、もう一度この問題と向き合わなければならないらしい。
————
その夜。
王宮の奥では、ヘレナ妃が国王陛下の執務室へ向かうため、侍女へ外套を用意させていた。
「妃殿下、今から陛下のもとへ?」
「ええ」
「もう遅い時間ですが……」
「構わないわ」
ヘレナは歩きながら、昼間のセレスティーナの顔を思い浮かべた。
何を言われても、自分の意思を曲げない少女。だからこそ、簡単には諦められない。
「今度は、私が陛下を説得する番ね」
そう呟き、ヘレナは国王の執務室へ続く廊下を進んでいった。
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