第093話 正妃様は、王命を使わずにわたくしを王家へ迎えるつもりでしたわ
王宮の南棟にある応接室へ、私は一足先に入っていた。卓上には二人分の紅茶と焼き菓子を用意させてある。見た目だけなら、親しい令嬢を招いた穏やかな茶会にしか見えないだろう。私はその光景を眺めながら、胸の内に残っている迷いを押し込めた。レナートはもう、自分の気持ちをセレスティーナへ押しつけないと決めた。ならば、私も同じように身を引くべきなのかもしれない。頭ではそう分かっている。それでも、あの少女を王家へ迎えたいという思いは、簡単には消えてくれなかった。
「正妃殿下、セレスティーナ様がお見えになりました」
「通してちょうだい」
侍女が扉を開けると、セレスティーナが一礼して入ってきた。財務局で仕事をしているときと変わらない、整った身なりだった。十五歳とは思えない落ち着きを持ちながら、時折見せる表情には年相応の少女らしさが残っている。その姿を見ると、私はやはりこの少女を王家へ迎えたいと思ってしまう。王族として生きるには、あまりにも自分の意思が強い。それでも、その強さこそが、この国には必要なのだと思っていた。
「お招きいただき、ありがとうございます」
「こちらへいらっしゃい。今日は堅苦しい話をするつもりはありません。少しお茶に付き合ってほしいだけよ」
「承知いたしましたわ」
セレスティーナが向かいの席へ腰を下ろす。侍女が紅茶を注ぐと、白い湯気が二人の間をゆっくりと昇った。私はカップへ手を伸ばしながら、どう切り出すべきかを考える。以前のように、王族としての権威を前面に出してはいけない。レナートも自分の意思で身を引いた。私が同じことを繰り返せば、陛下から再び厳しい言葉を受けることになるだろう。それだけは避けなければならない。私は一口だけ紅茶を飲み、静かにカップを置いた。
「セレスティーナ。あなたは今、財務局でとても大きな責任を担っているわね」
「はい。私にできる限りの仕事をしているつもりですわ」
「あなたにしか任せられない仕事が多いことも、私は知っています」
「ありがたいお言葉ですわ」
素直に頭を下げるセレスティーナを見て、私は言葉を選んだ。責めるのではなく、未来を示す。命じるのではなく、選択肢を与える。そのつもりだった。
「だからこそ、私はあなたにもっと大きな立場を与えたいと思っているの」
「大きな立場、ですか?」
「えぇ。財務局の中で高い地位に就くだけではなく、王族として国政に関わる道よ。王族になれば、財務局で働くよりも自由にできることが増えるわ。予算の配分について意見を述べることも、各地の財政状況を直接確認することもできる。あなたほど数字に強い人間なら、王国全体を動かす立場に立つことができるでしょう」
「……財務局にいるままでは、できないこともございますわね」
「そうよ。あなたは今でも、王国の財政を支えているわ。でも、王族となれば、その力をさらに広い範囲で使える。あなたが望む政策を実現するための権限も増えるでしょう」
「それは、確かに魅力的なお話ですわ」
「そうでしょう?」
「はい。ただ、それと私が王族になることとは、別の話だと思っております」
「……別の話?」
「私は財務局で仕事をすることを望んでおります。王族にならなければできないことがあるとしても、王族になること自体を望んでいるわけではありません」
予想していた答えだった。それでも、実際に聞くと胸の奥へ重く響いた。
私はカップを持ち上げ、紅茶を口へ運ぶ。香りは穏やかなのに、舌へ触れた味が妙に苦く感じられた。私は焦ってはいけないと思い直す。まだ話は始まったばかりなのだ。
「では、別の話をしましょう」
「はい」
「レナートのことよ。あの子は、あなたをとても大切に思っているわ。あなたと過ごす時間を喜び、あなたの仕事を理解しようと努力している。あなたも、それは知っているでしょう?」
「存じております」
「レナートは、あなたのことを大切にできる人間よ。あなたが財務局で仕事を続けたいという意思も、以前より理解するようになったわ」
「はい」
「ならば、レナートと婚姻して王家へ入ることも、決して悪い選択ではないと思わない?」
セレスティーナはすぐには答えなかった。窓の外へ一度だけ視線を向け、それから私へ戻す。表情は穏やかだったが、その目には迷いよりも、すでに決めている者の強さがあった。
「申し訳ございません」
「……どうして?」
「私は、レナート殿下と婚姻するつもりはありません。殿下が私を大切に思ってくださっていることは、嬉しく思っております。ですが、それに応えるために婚姻することはできませんわ」
「あなたは、レナートが嫌いなの?」
「いいえ」
即答だった。
「嫌っているわけではありません。幼い頃から親しくしていただきましたし、殿下には感謝しております。だからこそ、曖昧な気持ちのまま婚姻することは、殿下に対して失礼だと思っています」
私は言葉を失ってしまった。レナートを拒絶する理由が嫌悪ではない。それが分かったことで、余計に諦めきれなくなる。もし嫌われているのであれば、母親として受け入れるしかない。しかし、セレスティーナの言葉から感じられるのは、レナートへの優しさと、自分自身の人生を守ろうとする意思である。
「あなたは、これから先も財務局で働きたいの?」
「はい」
「ずっと?」
「私が望む限りは」
「王族になっても、財務局で働くことはできるわ」
「それでも、私は今の立場を自分で選びたいのです」
その言葉を聞いた瞬間、私は胸の奥に小さな苛立ちを覚えてしまう。ここまで条件を整えているのに、どうして頷いてくれないのだろう。王族になれば何もかも失うわけではない。むしろ、彼女の力をもっと自由に使えるようになる。レナートも彼女を大切にする。王国も彼女を必要としている。これほど整った話なのに、なぜ拒むのか。
「セレスティーナ」
「はい」
「あなたほどの才能を持つ女性なら、王家に入ることが最も相応しいと思わない?」
「お心遣いには感謝いたしますわ。ですが、私は自分が望まない立場には入りません」
その一言に、私は返す言葉を失ってしまった。
命じることはできない。王命を持ち出すこともできない。それでも、この少女を諦めるつもりにはなれなかった。
「……今すぐ答えを出さなくてもいいでしょう。今日は、あなたに選択肢を知ってほしかっただけよ。王家へ入ることが、あなたにとって悪いことばかりではないと分かってもらえれば、それでいいわ」
「お気持ちはありがたく頂戴いたします」
「よく考えてちょうだい。財務局で働く未来もあるでしょう。でも、王族として国の中枢に立つ未来もある。あなたなら、その両方を見比べて決められるはずよ」
「はい。考えること自体はいたしますわ」
「それなら、今日はここまでにしましょう」
「はい」
セレスティーナは席を立ち、丁寧に一礼して下がっていった。扉へ向かう小さな背中を見ながら、私は声をかけようとして、やめた。今ここで引き止めれば、結局また同じことになる。私は何も言わず、彼女が部屋から出ていくのを見送った。
扉が閉じ、私は一人になった部屋で、冷めかけた紅茶を見つめた。セレスティーナは、自分の人生を自分で選びたいと言う。その意思を尊重すると、私は言葉にした。だから、今すぐ答えを求めることはできない。
それでも、私は諦めてはいなかった。
「時間は、まだありますわ」
王命は使わない。
強制もしない。
ならば、セレスティーナ自身が王家へ入る未来を考えるようになるまで、私は待てばいい。そう思いながら窓の外へ目を向ける。
庭園を歩く侍女たちの姿が遠くに見えた。その穏やかな光景とは裏腹に、私の胸の内には一つの決意が残っていた。
私は、まだセレスティーナを王家へ迎えることを諦めていない。
そして、そのために次は何をすべきなのだろうかと思い悩んでしまったのだ。
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