第092話 レナート殿下は諦めても、正妃様は諦めませんでしたわ
王宮東棟の正妃宮、その奥にある私の私室には、午後の陽射しが斜めに差し込んでいた。窓の外には手入れの行き届いた庭園が広がり、噴水から落ちる水音が遠くから聞こえている。
私は窓際の椅子に腰を下ろし、机に置かれた書類へ目を通していたものの、さきほどから同じ一行を何度も読み返していた。紙に並んだ文字が頭へ入ってこない。
今日はレナートがセレスティーナのもとを訪ねることになっている。あの子が何を話すつもりなのか、私は知らされていなかった。ただ、レナートがここ数日、何かを決意したような顔をしていたことだけは覚えている。母親として、嫌な予感がしていた。
「……まさか、あの子」
私は書類を机へ置いた。胸の中に浮かんだ考えを追い払おうとしたものの、一度思いついてしまえば簡単には消えてくれない。
レナートがセレスティーナを諦める。そんなことを考えたくはなかった。あの子が彼女へ向けている気持ちを、私はずっと見てきた。幼い頃からセレスティーナのそばへ行きたがり、財務局へ通うようになった彼女の話を聞けば嬉しそうに笑い、何か困ったことがあれば真っ先に助けようとしていた。王子としての立場を利用したいのではない。ただ、好きな女性のそばにいたい。その気持ちは、母親の私にも痛いほど伝わっていた。
そのとき、扉が三度、控えめに叩かれた。
「母上、入ってもよろしいですか」
「えぇ。入りなさい」
扉が開き、レナートが姿を現したのだが、私は息子の顔を見た瞬間、胸の奥がざわついた。いつもなら私の前で少しだけ表情を緩めるのに、今日は口元が固く、視線もどこか遠い。成人の儀を終えたとはいえ、まだ十五歳なのだ。大人の顔をしようとしている姿が、かえって痛々しく見える。私は向かいの椅子を示したが、レナートはそこへ座ろうとはせず、窓のそばに立ったまま、しばらく庭園を見つめていた。
「セレスティーナに会ってきたのね?」
「はい」
「何を話したの?」
レナートはすぐには答えなかった。庭園を渡る風が窓の隙間から入り、薄いカーテンを揺らしている。その動きを目で追っていた息子が、やがて小さく息を吐いた。
「僕は、セレスティーナとの婚姻を望まないことにしました」
「……本当に?」
「はい」
「あなたは、それで後悔しないの?」
「後悔すると思います。僕は今でも、セレスティーナが好きです。彼女に僕の妻になってほしいと思っています。僕の隣にいてほしいし、僕が守れる場所にいてほしい。そう思っています」
レナートはそこで一度言葉を止めた。指先を握りしめ、何かを耐えるように視線を落とす。
「でも、それは僕が望んでいることであって、セレスティーナが望んでいることではありません」
「……あなたは、そう考えたのね」
「はい」
以前のレナートなら、自分の気持ちを隠すことなど考えなかっただろう。セレスティーナが嫌がっていると知っても、いつか気持ちが変わると信じようとしたかもしれない。私自身も、そうなることを期待していた。王族として生まれた息子が、これほど一人の女性を大切に思っている。その女性を王家へ迎えることができれば、どれほど幸せだろう。そんな未来を、私は何度も思い描いていた。
「セレスティーナは、あなたに何と言ったの?」
「僕の気持ちを聞いてくれました。それから、自分の気持ちも話してくれました」
「どんな気持ちだったの?」
「自分の人生を、自分で決めたいという気持ちです。僕は、それを邪魔したくありません」
レナートの声は穏やかだったが、その穏やかさの奥に、隠しきれない苦しさがあることを私は知っていた。
「僕は、セレスティーナを幸せにしたかった。でも、僕の妻になることが彼女の幸せではないのなら、僕がするべきなのは、無理に振り向かせることじゃないと思いました」
「レナート……」
「母上にも、お願いがあります。セレスティーナを、もう困らせないでください。僕は、あの子を諦めます。簡単なことではありません。でも、僕が決めました」
「あなたは……本当に、それでいいの?」
「よくありません。本当は、嫌です。セレスティーナが誰かを好きになることも、その人と一緒にいることも、考えたくありません。僕のところへ来てほしいです。ずっとそう思っています。でも、好きな人に嫌われるようなことをしてまで、自分のものにしたくありません」
私は何も言えなかった。
息子が涙をこらえている。その姿を見ているだけで、母親として抱きしめてやりたい気持ちになる。私は立ち上がり、レナートの前まで歩いた。肩へ手を置こうとしたが、その直前で止めた。今の息子は、慰められることを望んでいるのではない。自分で決めたことを、最後まで受け止めようとしているのだと分かったからだ。
「セレスティーナには、何と言ったの?」
「僕は……」
レナートは唇を引き結び、しばらく黙っていた。それから、涙をこぼさないように顔を上げた。
「僕は、君に幸せになってほしい。僕とではなくても、って伝えました」
「セレスティーナは?」
「驚いていました。それから……ありがとう、と言ってくれました」
「そう」
「僕は、それだけで十分です」
レナートは無理やり笑顔を作っている。私はその笑顔を見つめながら、胸の中で何度も考えてみた。
レナートは、自分の恋を手放した。自分が望む未来ではなく、セレスティーナが望む未来を選んだのだ。母親としては、息子が傷つかない道を選んでほしいと思ってしまう。それでも、この子が自分で選んだ決断を否定することはできなかった。
「母上」
「何です?」
「セレスティーナが誰を選んでも、僕は邪魔しません」
「……そう」
「だから、母上もお願いします。「セレスティーナのことを、無理に王家へ迎えようとしないでください」
レナートは深く頭を下げて頼み部屋から出て行った。レナートが部屋を出ていくまで、私はただ黙って息子を見送るしかできなかった。扉が閉じる音が聞こえたあと、広い部屋には再び私一人だけが残される。私はゆっくりと椅子へ戻り、机の上へ手を置く。先ほどまで目に入らなかった書類が、今度は妙にはっきり見えた。それでも、そこに書かれている内容を読む気にはなれない。
「……レナートは、諦めたのね」
声に出してみると、その事実が思っていた以上に重く感じられてくる。私は息子に幸せになってほしかった。セレスティーナなら、きっと良い妻になる。そう思っていた。賢く、強く、王国にとって欠かせない存在であり、何よりレナートが心から愛している女性だ。二人が結ばれる未来は、私にとってあまりにも自然なものだった。
だから、息子がその未来を自分から手放したことが、どうしても受け入れられない。
「でも……。レナートが諦めたからといって、私まで諦める必要があるのかしら」
セレスティーナは王国にとって重要な人間だ。財務局で働き、国の財政を支え、王宮の誰もが頼りにしている。そんな彼女が王家に入れば、王国にとって大きな支えになる。もちろん、それだけではない。私はあの少女自身を気に入っている。強い意思を持ち、自分の力で道を切り開いていく姿を見るたび、王家に迎えたいという思いは強くなっていた。
だからこそ、私は自分へ問いかける。
私は、本当にセレスティーナのためを思っているのだろうか。
それとも、王家にとって必要な少女だから手元へ置いておきたいだけなのだろうか。
答えは出なかった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
レナートは諦めた。
だが、私はまだ諦めていない。
「王命を使うつもりはありませんわ。それをすれば、また陛下に叱られてしまうもの」
ならば、別の方法があるはずだ。
セレスティーナが王家へ入ることの意味を伝える。レナートと結ばれることだけが道ではないと示す。彼女自身が納得できる形で、王家へ迎える方法を探す。
「まだ終わってはいませんわ」
息子は、自分の恋を諦めた。
それでも母親である私は、まだセレスティーナを王家へ迎えることを諦められなかった。
その思いを胸に抱いたまま、私は一人、次の手を考え始めたのだ。
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