第091話 番犬と呼ばれる私が、殿方との時間を楽しんでいますわ
それから数日が過ぎた。私はいつも通り財務局へ通い、朝から帳簿と向き合い、昼を過ぎれば王宮から届いた予算案を確認し、夕方には各部署から上がってきた報告書へ目を通していた。
仕事の内容そのものは、何一つ変わっていない。数字が並び、書類が積まれ、誰かが計算を間違えれば私が見つける。それだけの日々だった。それなのに、以前とは少しだけ違う。仕事の合間にふと時計を見るたび、私は無意識に次の予定を考えてしまう。アレクサンドル様と、次に会えるのはいつだったか。そう考えている自分に気づくたび、私は小さく息を吐いた。財務局の番犬などと呼ばれている私が、仕事とは無関係な男性との予定を気にしている。少し前の私なら、そんな自分を笑い飛ばしていたと思う。
「セレスティーナ様、本日の午後に公爵家から書簡が届いております」
事務官から封書を差し出され、私は受け取った。公爵家という文字を見ただけで、胸がわずかに跳ねる。私はそれを悟られないよう、何でもない顔で封を切る。
内容は財務局への問い合わせでも、予算関係の相談でもなかった。公爵家が所有する領地の税収報告について、いくつか確認したい事項があるという簡単な連絡だった。アレクサンドル様本人からのものではない。それなのに、私はなぜか少しだけ残念に思ってしまった。
書類を机へ置いたところで、自分が何を期待していたのかに気づき、私は慌てて首を振る。公爵家という文字を見て、真っ先に一人の男性を思い浮かべてしまった自分が、どうにも落ち着かない。
「……何を期待しているのです、私は」
誰に聞かせるつもりもなく呟いた直後、向かいの席から視線を感じた。顔を上げると、エルメリンダがこちらを見ている。何も言わないのに、その口元には明らかな笑みが浮かんでいた。私はすぐに書類へ目を戻したが、彼女の視線が消えた気配はない。
私は余計なことを言わないよう黙々と書類を確認したが、結局、その日の午後まで何度か彼女の視線を感じることになった。
その日の夕方、私は王宮で行われる簡単な会議へ出席するため、財務局を出た。廊下を歩いていると、向こうから見覚えのある姿が近づいてくる。公爵家の嫡男、アレクサンドル様である。瞬間、胸が跳ね、足取りまで少し軽くなったのは気のせいだろうか?
私は慌てて歩調を整えることにした。財務局の番犬などと呼ばれる自分が、たった一人の男性を見つけただけで浮かれているように見えるのは、どうにも格好が悪い。それでも、彼が私に気づき、柔らかな笑顔を浮かべた瞬間、そんなことはどうでもよくなった。
「セレスティーナ嬢。ちょうどよかった。少しお話ししても?」
「ええ、もちろんですわ」
(しまった、返事が早すぎた)
私は心の中で自分を叱るが、アレクサンドル様は気にした様子もなく隣へ並んでくる。二人で長い廊下を歩き始め、何を話そうかと考えているうちに、彼のほうから先日のパーティーについて口を開いてきた。
「先日のパーティーでは、あまりお話しできませんでしたね」
「そうでしたわね。アレクサンドル様は、とても人気がおありでしたもの」
「……あれは人気というより、逃げられなかったというほうが正しいかもしれません」
「まぁ。ずいぶん失礼なことをおっしゃいますのね」
「失礼でしたか?」
「えぇ。あれだけ多くの令嬢に囲まれていた殿方が、そのようなことをおっしゃるなんて」
私は冗談めかして返した。すると、アレクサンドル様は少しだけ困ったように笑う。
「ですが、本当にそう思っているのです。私はセレスティーナ嬢と話しているほうが楽しかったですから」
【セレスティーナ嬢に会えて嬉しい。あの場にいた誰よりも、彼女と話していたかった。もっと二人で話す時間が欲しかった】
胸の奥が、また大きく跳ね、彼に鼓動が聞こえるのではないかと心配になってしまう。
私は一瞬だけ彼の顔を見つめ、それから慌てて前へ視線を戻した。聞き間違いではない。彼が口にした言葉と、心の中に浮かんだものは同じだった。以前のパーティーでもそうだった。私と話すときだけ、彼の言葉には余計なものがない。
「……そういうことを、簡単に口にされるものではありませんわ」
「どうしてですか?」
「女性を勘違いさせますもの」
私がそう言うと、アレクサンドル様は少し考えるように目を伏せ、それから静かにこちらを見た。
「私は、勘違いしてほしくない相手には言いません」
【セレスティーナ嬢には、私の気持ちを誤解してほしくない。むしろ、私がどれほど彼女を大切に思っているのか、いつかきちんと伝えたい】
また、同じだった。
私は胸の奥が妙に熱くなるのを感じた。彼の言葉だけなら、貴族として女性を口説くための上手な言葉だと考えることもできる。けれど、その心まで同じなのだから、疑いようがない。
「……アレクサンドル様は、ずるい方ですわね」
「そうでしょうか」
「ええ。そうですわ」
私が笑うと、アレクサンドル様も嬉しそうに笑う。
【セレスティーナ嬢が笑ってくれた。それだけで、今日ここへ来てよかったと思う。できることなら、このままもう少し一緒にいたい】
胸が騒いで仕方がない。
私は前を向いたまま、頬が熱くなっていくのを自覚していた。
以前の私は、誰かから好意を向けられると、その裏に何があるのかを考えていた。
何を求めているのか。
何を利用しようとしているのか。
どんな見返りを期待しているのか。
人の言葉をそのまま受け取ることなど、ほとんどなかった。前世で信じた言葉が自分を苦しめたからこそ、私は疑うことを覚えたのだと思う。
それなのに、アレクサンドル様と話していると、その警戒心が少しずつほどけていく。
彼の言葉を疑わなくていい。
彼が笑えば、本当に嬉しいのだと分かる。
彼が私と話したいと言えば、本当にそう思っているのだと感じられる。
そのことが、私には不思議なほど心地よかった。
「セレスティーナ嬢?」
「……何ですの?」
「先ほどから、少し嬉しそうでしたので」
「そう見えました?」
「はい」
【嬉しそうな彼女を見ると、私まで嬉しくなる。できれば、これからも彼女には私の前でだけでも、こんなふうに笑っていてほしい】
私は少し恥ずかしくなって、前を向く。
「……アレクサンドル様とお話しするのが、楽しいからかもしれませんわ」
自分から言ってしまった。今までの私なら、絶対に口にしなかった言葉だった。
アレクサンドル様はしばらく黙っていたが、やがて穏やかな声で答えた。
「私も同じです」
【嬉しい。セレスティーナ嬢も私と話すことを楽しいと思ってくれている。その事実だけで、胸がいっぱいになる】
私は思わず彼を見上げると、アレクサンドル様は、いつもと変わらない穏やかな顔でこちらを見ている。
なのに、胸の中にはこんなにも真っ直ぐな気持ちがある。その事実を知るたび、私の中にある何かが少しずつ変わっていく。
王宮の窓から差し込んだ夕方の光が、長い廊下へ細く伸びていた。私たちはその光の中を並んで歩いている。私はふと、この時間が終わってしまうことを惜しいと思った。
もっと話したい。
もう少し、この人の隣にいたい。
そんな気持ちが自然に湧いてくる。
「……また、お会いできますか?」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
アレクサンドル様が目を見開く。
「もちろんです」
【次に会う約束ができた。こんなに嬉しいことはない。次は、もっと長く彼女と話したい】
その本心を見た瞬間、私は思わず小さく笑ってしまう。
そう、私は、この人といる時間が好きなのだ。そして、次に会える日を楽しみにしている。それを認めることに、もう以前ほどの怖さはなかった。
むしろ、次に会える日が少しだけ待ち遠しい。
そんな自分の変化を、私は不思議に思いながらも、嫌だとは思わなかった。
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