第090話 私にだけ本心を隠さない理由を、教えてくださいませ
パーティーから帰宅したあとも、私はなかなか眠れなかった。いつもなら湯浴みを済ませ、温かい飲み物を口にして布団へ入れば、財務局で積み上がった数字の山など、眠りと一緒に頭から追い出せる。
ところが、その夜だけは違った。目を閉じるたび、広間で穏やかに笑っていたアレクサンドル様の姿が浮かんでくる。大勢の子女に囲まれていた彼が、私を見つけた途端にこちらへ歩いてきたこと。そして、私と話しているときに見せた、あの飾らない表情。私は枕へ頬を押しつけながら、小さく息を吐いた。
「……どうして、こんなに気になるのかしら」
独り言にしては、あまりにも素直な言葉だった。私はすぐに布団を頭までかぶる。
おかしい。
どう考えてもおかしい。
私はこれまで、誰かの顔色を気にして生きることなど避けてきた。仕事ができるか、帳簿に間違いがないか、国庫に損失が生じないか。私にとって重要なのは、それだけだったはずだ。それなのに、今は仕事とは何の関係もない一人の男性が頭から離れない。しかも、彼と次にいつ会えるのかなどと考えている自分がいる。
「……眠りなさい、私。明日は財務局ですわよ」
そう言い聞かせても、眠気は一向に訪れなかった。
————
翌朝、私は普段より少し早く財務局へ向かうことにした。仕事を始めれば余計なことなど考えなくなると思ったのだが、その目論見は見事に外れてしまう。
机へ座り、王宮関係の支出書類を開き、三百二十七枚の領収書を確認し、金額を照合していく。いつもなら数字の並びを見ただけで頭の中に規則性が浮かび上がるというのに、今日は何度も同じ欄を読み返してしまう。数字が間違っているわけではない。間違っているのは、どうやら私の集中力のほうだった。
「……三百二十七、四百八十、二千百……」
声に出して確認していた私は、ふと手が止まる。
また考えている。
昨夜と同じことを。
アレクサンドル様は、他の子女たちと話しているときも礼儀正しかった。誰かを傷つけるような言葉は一度も口にしなかったし、相手の話にもきちんと耳を傾けていた。それなのに、私と話すときだけは、妙に肩の力が抜けているように感じた。あの違いが、どうしても気になる。
「……本当に、困りましたわ」
「何が困ったの?」
「ひゃっ!」
突然、すぐ横から声がして、私は危うく羽根ペンを落としかけた。振り向くと、そこには書類の束を抱えたエルメリンダが立っている。彼女は私の顔を見た途端、何かを察したように目を細めた。
「朝からぼんやりしていると思ったら、何かあったでしょう?」
「何もありませんわ」
「嘘ね」
「なぜ即答ですの?」
「あなた、嘘をつくときだけ返事が妙に早くなるもの」
こういうところが、エルメリンダは妙に鋭い。私自身がまだ自覚していない変化まで、彼女は簡単に拾ってしまう。仕事上の異変を見つける能力とは別の、親友だからこそ分かる感覚なのだろう。私は諦めて小さく息を吐いた。
「……昨日のパーティーのことですわ」
「やっぱり!」
「アレクサンドル様と話したのね?」
「えぇ、少しだけ」
「何を話したの?」
「普通のお話ですわ」
「普通って何?」
「パーティーのお話ですわ」
「他には?」
「……他には」
そこで言葉が止まってしまう。どうして私は、こんなにも答えにくいのだろう。
エルメリンダは私の顔をじっと見つめたあと、突然にっこりと笑った。
「何を言われたの?」
「……一緒にいて楽しい、と」
「まぁ! それで、あなたは何と答えたの?」
「特には」
「嬉しかった?」
「……」
「嬉しかったのね?」
「……少しだけですわ」
「少しだけ?」
「……かなり、ですわ」
認めた途端、顔が熱くなってきた。
エルメリンダは何も言わず、私の顔を眺めている。その表情には、からかうというより、ようやく答えに辿り着いた人間を見るような満足感があった。
「セレスティーナ」
「何ですの?」
「あなた、アレクサンドル様のことが好きでしょう?」
「……」
胸の奥を、何かに突かれたような気がした。それに対し、私はすぐに否定しようとしたのだが、言葉が何も出てこなかった。
以前なら、「そんなことはありません」と即座に言えたはずだ。レナート殿下に心が傾きかけた頃でさえ、私は自分の感情を理屈で整理しようとしていた。けれど今は違う。
アレクサンドル様が来ると聞いただけで、パーティーへ行ってみようと思った。
大勢の人に囲まれている姿を見れば、なぜか気になった。
こちらへ歩いてきてくれたときは、嬉しかった。
そして、話している間は、もう少しこの時間が続けばいいと思った。
「……私、アレクサンドル様と話すのが好きなのだと思いますわ」
「それは、かなり大きな一歩ね」
「ですが、それだけではありませんわ。また会いたいと思いますもの」
「うん」
「お話ししたいと思いますもの」
「うん」
「それに……」
私はそこで口を閉じた。それ以上を言葉にするのは、まだ恥ずかしかった。
エルメリンダは急かさずに、ただ、楽しそうに私を見ている。
「……会えないと、少し寂しいと思いますわ」
「それはもう、十分でしょう」
「何がですの?」
「恋よ」
私は目を伏せる。
恋。
その言葉を胸の中で転がすだけで、妙に落ち着かなくなる。
前世の私は、恋をしていると思い込んでいた相手に人生を差し出した。その結果、自分の生活も、時間も、身体も、何もかも失った。だから今世では、誰かを好きになることそのものを警戒していたのだと思う。
好きになれば、また何かを奪われる。そんな恐怖が、心のどこかに残っていた。
それなのに、アレクサンドル様のことを考えると、怖さよりも先に別の感情が出てくる。
嬉しい。
もっと話したい。
もっと知りたい。
その気持ちを認めることが、こんなにも怖くて、同時に嬉しいなんて知らなかった。
「……私、恋をしているのでしょうか?」
「あなたがそう思ったなら、そうなんじゃない?」
「ずいぶん簡単ですわね」
「恋なんて、帳簿みたいに数字を並べて答えを出すものじゃないもの」
「それは……そうですわね」
私は思わず笑い、エルメリンダは、私が笑ったのを確認すると、今度は少し真面目な顔になった。
「でも、私には分かるわ」
「何がですの?」
「あなたがアレクサンドル様の話をするときだけ、嬉しそうなの」
「……そんなに分かりやすいのですか?」
「えぇ。あなたは自分で思っているより、ずっと分かりやすいわ」
財務局では、誰よりも冷静に数字を追える自信がある。不正の兆候を見つければ、どれだけ巧妙に隠されていても見逃さない。人の言葉に惑わされないよう、自分自身を守ることにも慣れている。
なのに、自分の恋心だけは、こんなにも簡単に親友へ見抜かれてしまった。
「……エルメリンダ」
「何?」
「私、どうしたらいいのでしょう?」
「あなたは、どうしたいの?」
その問いに、私は答えを考える。
どうしたいのかと。少し前までなら、分からないと答えていた。
今は違う。
「……また、アレクサンドル様とお話ししたいですわ」
「それで十分よ」
エルメリンダは笑いながら頷く。私は、なんとなく恥ずかしくなり、机の上に置かれた書類へ視線を戻す。書類上の数字は相変わらず整然と並んでいる。今度はきちんと頭に入ってくる。ただ、羽根ペンを動かしながらも、心の片隅には昨日の彼の姿が残っていた。
私はまだ、自分の気持ちをどう扱えばいいのか分からない。
それでも一つだけ、はっきりしていることがある。
次にアレクサンドル様と会える日を、私は楽しみにしている。
それを認めた瞬間、胸の奥がほんのり温かくなったのだった。
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