第088話 隠していた恋心は、親友の勘に見抜かれますわ
翌朝、私はいつも通り財務局の机に向かっていた。昨日、正妃殿下に呼び出され、レナート殿下との婚姻を求められたことも、その場ではっきりと断ったことも、さらに国王陛下へ直談判することになったことも、すべて昨夜の出来事だ。
それでも朝になれば、地方税の配分案や軍務省の補正予算、王宮から届いた支出申請書が私を待っている。私は羽根ペンを走らせながら、数字の誤りを一つずつ拾っていた。仕事をしている間は余計なことを考えずに済む。そのはずだった。ところが、ある数字の並びを見た瞬間、不意に別のものが頭へ浮かんだ。昨日のレナート殿下ではない。もっと最近、私の中に妙に残るようになった、別の男性の顔だった。
「……どうして、今思い出すのでしょう」
思わず口からこぼれた言葉に、自分で驚いて口を閉じる。私は何事もなかったように書類へ視線を戻したが、さっきまで追っていた数字が頭へ入ってこない。
浮かんだのは、以前の夜会で私が足を取られたとき、とっさに腕を支えてくれた公爵家の嫡男、アレクサンドル様だった。あのとき交わした言葉など、特別なものではなかったはずなのに、声も表情も妙にはっきり覚えている。私は羽根ペンを置き、頬杖をついた。財務の数字なら、どれほど複雑でも原因を探れば答えが出る。なのに、どうしてこの人のことだけは、考えれば考えるほど分からなくなるのだろう。
「セレスティーナ、おはよう」
「おはよう、エルメリンダ」
声に振り返ると、エルメリンダが菓子の包みを抱えて立っていた。いつもの差し入れを受け取りながら礼を言おうとした私は、その瞬間、彼女がじっと私の顔を見ていることに気づいた。
笑っている。
しかも、何かを見つけたときの顔だ。エルメリンダは昔から、人の表情を読むのが妙に上手い。私が疲れているときも、何も言わなくても気づく。誰かが無理に笑っていれば、その笑顔の奥にある事情まで探ろうとする。だから私は、彼女がこういう顔をしているときには、余計なことを話さないほうがいいと経験から知っていた。
「昨日、王宮へ呼ばれましたわね?」
「えぇ」
「正妃殿下とレナート殿下も?」
「えぇ」
「婚姻のお話?」
「……そうですわ」
「断りました?」
「はい」
「きっぱり?」
「きっぱりですわ」
質問が途切れたので、これで終わったと思った。ところがエルメリンダは椅子へ腰を下ろすと、頬杖をついて私の顔を眺め始めた。その視線が気になり、私は書類へ目を落とす。
「何ですの?」
「セレスティーナ」
「はい」
「昨日、正妃殿下から『好きな方でもいるのか』と聞かれませんでした?」
「……なぜ、それを?」
「やっぱり」
「何がですの?」
「いえ。やっぱり、何かありましたのね」
しまった!
エルメリンダはこういうところが鋭い。答えの内容より、私の反応から先に答えを拾ってしまうのだ。
「別に何もありませんわ」
「本当ですか?」
「本当です」
「では、どうして今、羽根ペンを止めたのです?」
「……偶然ですわ」
「先日から、アレクサンドル様のことを考えていませんでした?」
今度こそ、完全に言葉を失ってしまった。私の態度に、エルメリンダは満足そうに目を細めたが、私は慌てて顔を背けた。
どうして分かったのだろう。名前すら口にしていない。それなのに、まるで私の頭の中を覗き込まれたような気分になる。
「な、なぜ、その名前が出てくるのです?」
「セレスティーナの顔が変わりましたもの」
「顔?」
「ええ。レナート殿下のお名前を出したときとは、まるで違いますわ」
「……」
「それに、先ほどから一度も『殿下』とはおっしゃっていませんでしょう?」
言われてみれば、その通りだった。昨日の出来事なら、普通はレナート殿下のことを考えるはずなのに、私の頭へ浮かんでいたのはアレクサンドル様だった。その事実を認めた途端、胸の奥が妙に熱くなる。
「……私は、少し変なのでしょうか?」
「いいえ。普通ですわよ」
「普通?」
「好きかもしれない方のことを考えてしまう。それだけでしょう?」
その言葉が、胸の奥へすっと入ってきた。
アレクサンドル様に助けてもらったときのことを思い出す。
あの人と話していると、不思議と身構えなくていい。何かを疑ってかかる必要もない。ただ話しているだけなのに、気持ちが楽になる。
そう考えているうちに、昨日の茶会でレナート殿下が俯いていた姿が重なった。私は殿下を嫌っているわけではない。以前、心が揺れた時期もあった。それでも今は、王族になる未来を選びたいとは思わなかった。そして、婚姻を断ったあとに私の心へ浮かんだのがアレクサンドル様だったことが、何より自分自身を戸惑わせていた。
「……また、お会いしたいとは思いますわ」
「まぁ!」
「そのような顔をなさらないでください」
「どのような顔ですの?」
「全部分かりました、と言っている顔ですわ」
「ウフフフフ。だって、本当に分かってしまいましたもの」
エルメリンダが楽しそうに笑うので、私は小さくため息をついてしまった。どうしてこの人には隠せないのだろう。財務局でどれほど複雑な帳簿を扱っても、私は一度もこんなに困ったことはない。
「では、もう一つだけお聞きしても?」
「一つだけですわよ」
「もし今日、アレクサンドル様が財務局へいらしたら?」
私は反射的に入口を見てしまう。そんな自分の動きに気づいて、慌てて視線を戻す。
「……少し、お話ししたいと思いますわ」
「お仕事を放り出して?」
「そこまではいたしません」
「では、お仕事が終わったあとなら?」
「……お話ししますわ」
「その方と?」
「はい」
答えてから、私は自分の頬が熱くなっていくのを感じた。エルメリンダは何も言わず、ただ嬉しそうに笑っている。その笑顔を見ていると、私はもう誤魔化すことに疲れてしまった。
「……変ですわね」
「何がです?」
「私は今まで、恋愛など自分には必要ないと思っていましたのに」
前世で人を信じた結果、私は自分の生活も人生も失った。だからこそ、二度目の人生では誰かに頼ることも、誰かを特別に思うことも避けてきた。
それなのに、たった一人の男性について考えるだけで……。
仕事中に手が止まる。
もう少し話したいと思う。
会えたら嬉しいと思う。
その感情を否定しようとすると、かえって胸の奥がざわついた。
「……もしかして、これが恋というものなのでしょうか」
「私には、そう見えますわ」
「まだ、分かりません」
「でしたら、分かるまで考えてみればよろしいのでは?」
エルメリンダの言葉に、私は少しだけ笑ってしまった。
————
その日の夕方、仕事を終えて王宮の回廊を歩いていると、角の向こうから人影が現れた。私は足を止めてしまう。それは、見覚えのある姿だったからだ。
公爵家の嫡男、アレクサンドル様が、こちらへ向かって歩いてくる。
「セレスティーナ嬢」
「アレクサンドル様……」
名前を呼んだだけなのに、胸が大きく鳴ってしまう。朝から何度も考えていた相手が、偶然目の前に現れた。そのことが嬉しい。私はその感情を隠そうとして、かえって不自然に姿勢を正した。
「まだお仕事だったのですね」
「はい。少し決裁が残っていましたの」
「お疲れでしょう」
「そうかもしれませんわ」
「でしたら、少しだけ休まれてはいかがです?」
「……そうですわね」
私は彼と並んで歩き始めた。以前の私なら、誰かと歩く時間を惜しんでいた。仕事が終われば早く帰って、明日の書類を確認して、睡眠時間を確保する。それが一番合理的だと思っていた。それなのに今は、この回廊をもう少し歩いていたいと思っている。
「アレクサンドル様」
「はい?」
「また、お会いしてもよろしいですか?」
言った瞬間、自分でも驚いてしまった。私の言葉に、アレクサンドル様も少し目を見開いたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべてくれた。
「もちろんです。私も、またお話ししたいと思っていました」
その言葉が胸へ届いた瞬間、私は視線を落としてしまった。
頬が熱い。
こんなことで動揺する自分が、少し可笑しく思えてくる。
まだ、この感情に名前をつける覚悟はない。
それでも、もう気づいてしまった。
私はこの人に会えることを、嬉しいと思っている。
もっと話したいと思っている。
そして、その気持ちは仕事にも王族との婚姻にも関係なく、私自身が選んだものなのだ。
隣を歩くアレクサンドル様の足音を聞きながら、私は小さく息を吐いてい。
「……困りましたわね」
そう呟いた声には、困っているはずなのに、少しだけ笑いが混じっていた。
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