第087話 王命という鎖を断ち切る覚悟は、妃の怒りさえ退けますわ
午後、財務局で決裁書類へ目を通していた私のもとへ、王宮から一通の封書が届いた。封蝋に刻まれているのは、正妃ヘレナ妃の紋章だった。私は封を切りながら、嫌な予感を覚えた。
財務局の報告書なら、国王陛下から直接呼び出されることのほうが多い。わざわざ正妃殿下から私へ届く手紙となれば、仕事とは別の用件だろう。中身を確認すると、案の定、そこには王宮での茶会への招待が記されていた。そして末尾には、レナート殿下も同席するとある。
「……そういうことですのね」
最近のヘレナ妃の動きを考えれば、目的は一つしかない。レナート殿下との婚姻について、もう一度話すつもりなのだろう。これまで私は、はっきりと拒絶することを避けてきた。王族との関係を悪化させる必要はないし、レナート殿下には幼い頃から世話になっている。何より、彼が私へ向けてくれている気持ちを知っていたからこそ、傷つける言葉を選びたくなかった。
「ですが……もう、曖昧なままではいけませんわね」
私は左目へ触れた。今の私は、以前とは違う。アレクサンドル様と出会ってから、自分の心に生まれた感情を少しずつ理解し始めている。まだ、それを誰かへ告げるつもりはない。まして、婚姻を断る理由として話すつもりもなかった。ただ一つだけ、はっきりしていることがある。私は自分の意思で、自分の人生を決めたい。それだけだった。
もう、前世のよう都合の良い女になりたくないだけなのだ。
————
茶会の席へ通されると、庭園へ面した白い回廊に柔らかな午後の日差しが差し込んでいる。中央の卓には三人分の紅茶と菓子が並べられていた。
ヘレナ妃は優雅に微笑み、その隣にはレナート殿下が座っている。殿下は私と目が合うと、ほんの一瞬だけ笑ったものの、すぐに視線を落とした。その表情を見た瞬間、胸が痛んだ。やはり、分かっているのだ。今日ここへ呼ばれた理由も、これから何を話されるのかも。
「来てくれて嬉しいわ、セレスティーナ」
「お招きいただき、ありがとうございます」
「堅苦しい挨拶は必要ないわ。今日はただのお茶会ですもの」
私は席につく。だが、ヘレナ妃がわざわざレナート殿下を同席させている時点で、ただのお茶会ではないことくらい分かっている。紅茶へ口をつけると、香りのよい茶葉の味が広がった。私はカップを置き、殿下を見た。レナート殿下は黙ったままだった。以前なら、私へ何か話しかけようとしただろう。今日は違う。両手を膝の上に置いたまま、じっと俯いている。
「セレスティーナ」
「はい」
「以前から話していたことなのだけれど、そろそろ正式に決めてもいいと思っているの」
来た。
「レナートとあなたの婚姻についてよ」
私は一度だけ目を閉じ、覚悟を決める。これまでなら、「今は仕事がございますので」とか、「もう少し時間をいただけませんか」と言って逃げていただろう。だが、それでは何も変わらない。レナート殿下を余計に期待させ、ヘレナ妃にも諦めてもらえない。私は静かにカップを置き、ひとつ大きく息を吸う。
「申し訳ございません。私は、レナート殿下と婚姻するつもりはございませんわ」
庭園から風が吹き抜け、テーブルの上の白いレースがわずかに揺れた。
私の言葉に、ヘレナ妃の笑顔が消える。その隣のレナート殿下は顔を上げなかった。
「……今、何と?」
「私は王族にはなりません。レナート殿下の妻になることも、お断りいたします」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
以前なら怖かった。王族からの申し出を拒絶することが、どれほど大きな意味を持つのか理解しているからだ。それでも、今は怖くなかった。私の人生を私自身が決める。そのために必要な言葉なら、きちんと口にしなければならない。
「どうして?」
ヘレナ妃の声が低くなる。
「理由なら、以前から申し上げております。私は財務局で働き続けたいのです」
「それだけ?」
「それだけではありません。私は、自分の人生を王族という立場によって決められたくありません」
私は殿下をまっすぐ見て答えると、レナート殿下の肩が小さく揺れた。私は彼を見た。俯いたままの顔は見えない。だが、膝の上で握られた手が震えている。その姿を見ると、胸が締めつけられるようだった。
「レナート殿下」
「……大丈夫だ」
「ですが……」
「大丈夫だから」
震え声を聞き、私は何も言えなくなった。殿下は顔を上げない。涙を見せまいとしているのが分かってしまう。
私はそんな彼を責めることなどできなかった。私だって、誰かから大切なものを拒絶されたら、平気ではいられないだろう。
だが、その沈黙を破ったのはヘレナ妃だった。
「では、誰か好きな相手でもいるの?」
「……」
「答えなさい、セレスティーナ!」
ふと、アレクサンドル様の顔が浮かぶが、名前を口にするつもりはない。まだ自分の気持ちすら、すべて整理できていないのだから。
「お答えする必要はないと考えております」
「私にはあるわ!」
ヘレナ妃が立ち上がり、椅子が石床を擦る音が響く。その瞬間、私の左目に文字が浮かんできた。
【誰を好きになったのだとしても、王族を拒むなら許さない。あの娘が王命に逆らうなら、家ごと取り潰してでもレナートの妻にする。財務局も、家族も、すべて失わせればいい】
その本心に胸の奥が冷たくなる。言葉だけなら、怒りに任せた母親の叱責だった。だが、本心は違う。ヘレナ妃は本気で私を追い詰めるつもりだった。
「……お妃様」
「何よ」
「もう一度だけ、申し上げます。私はレナート殿下と婚姻いたしません。王族にもなりません。謹んでお断り申し上げます」
「セレスティーナ!」
「これ以上は、何を言われても答えは変わりません」
「王族の申し出を、そこまで拒絶するというの?」
「はい」
「あなたがどれほど国に必要な人間なのか、分かっているの?」
「存じております」
「ならば」
「だからこそです」
「私が自分の意思を失った状態で王族となれば、財務局の仕事にも支障が出ます。私は王国の財政を預かる者です。私自身が望まない立場へ置かれることが、国家にとって本当に良いことだとは思いません」
私は一礼し、その場を離れようとした。
「待ちなさい! レナートと婚姻するのは、王命です!」
足が止まった。
私はゆっくり振り返った。
ヘレナ妃は怒りに顔を染めている。その隣で、レナート殿下が顔を上げた。泣くのを堪えていた目に、はっきりと動揺が浮かんでいる。
「……王命、ですか」
「そうよ。あなたほどの人間を王族から離すわけにはいかない。レナートの妃となることは、あなたの義務です」
私は何も言わずに、そのまま茶会の部屋を出た。
向かった先は、国王陛下の執務室だった。
扉の前に立ち、衛兵へ用件を伝えると、すぐに中へ通された。陛下は机へ向かって書類を読んでいたが、私を見るなり眉を上げた。
「セレスティーナか。どうした。財務局から何か報告があるのか?」
「いいえ、陛下。本日は財務局の報告ではございません」
「珍しいな。ならば何だ?」
「正妃ヘレナ妃より、レナート殿下との婚姻を王命として命じられました」
「……何?」
「私はこれまで、曖昧な態度を取ってまいりました。しかし、本日、改めてお断りいたしました。その際、殿下から『レナート殿下と婚姻するのは王命である』と告げられました」
陛下はしばらく黙っていた。やがて、椅子から立ち上がる。
「ヘレナが……そう言ったのか」
「はい」
「レナートもその場にいたのか?」
「はい。殿下は何もおっしゃいませんでした」
「そうか……。セレスティーナ」
「はい」
「お前は、どうしたい?」
「王命によってレナート殿下との婚姻を強制されるのであれば……。私は、この場で命を絶つか、王国を出ます」
「……セレスティーナ」
「脅しではございません。私は、自分の人生を自分で決めたいのです。それを王命によって奪われるのであれば、私は財務官としても、一人の人間としても、この国に残ることはできません。この国で生きることより、自分の意思を捨てることのほうが、私には耐えられません」
陛下はしばらく私を見つめていたが、やがて低い声で騎士へ命じた。
「今すぐ正妃とレナートをここへ呼べ」
「はっ!」
騎士が駆け出していく。
それからほどなくして、扉が開いた。ヘレナ妃とレナート殿下が姿を現す。ヘレナ妃はまだ怒りを隠していなかったが、レナート殿下は私を見るなり顔を伏せた。
「陛下、お呼びとのことで」
「ヘレナ」
「お前は何を考えている」
「私はただ、セレスティーナをレナートの妃にと」
「王命と言ったそうだな」
「……はい」
「誰の許可を得て、その言葉を使った?」
ヘレナ妃が黙り込む。
「セレスティーナがいなくなれば、この国はどうなると思っている! 財務局だけの問題ではない。王宮予算、地方税収、軍事費、公共事業、王族費まで、あの娘がどれだけの数字を処理していると思っている!」
「ですが、レナートの妃になれば」
「妃になれば何だ! 王族に縛りつければ、この娘が喜んで働くとでも思ったのか! この娘が王国を捨てれば、誰がその穴を埋める! お前は国そのものを危うくしてまで、息子の婚姻を成立させたいのか!」
ヘレナ妃の顔が青ざめ、レナート殿下は何も言わずに、ただ、拳を握りしめたまま俯いている。
「しばらく自室から出ることを禁ずる。反省しろ」
「陛下……」
「これは命令だ」
私はその様子を見ながら、静かに息を吐く。自分の人生を守るために、私は初めて王族へ真正面から拒絶を突きつけた。胸の奥にはまだ緊張が残っている。それでも、不思議と後悔はなかった。
そして、ふとレナート殿下を見る。
彼はまだ俯いていた。
私は何も言わなかった。
今は、これ以上傷つける言葉を重ねる必要はないと思ったからだ。
ただ一つだけ、私は自分の中で確かめていた。
私はもう、自分の人生を誰かに決めさせない。
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