第086話 恋を認めた財務官に、親友の追及が止まりませんわ
翌朝、私はいつもより少しだけ早く財務局へ到着した。まだ職員の数も少なく、廊下には朝の冷たい空気が残っている。私は執務室へ入り、机の上に積まれた書類を見た瞬間、ようやく落ち着いた気がした。数字はいい。数字なら裏切らない。予算書には予算書の、決算書には決算書の役割がある。誰かが何を考えているのかなど気にせずとも、数字の並びを見れば異常は分かる。だから私は、いつものように椅子へ座り、最初の書類へ手を伸ばした。ところが、数字を追い始めて五分もしないうちに、昨日の男性の顔が浮かんできた。
「……集中なさい、私」
自分へ言い聞かせるように呟き、私は首を振る。
八百二十枚の金貨、九百四十枚の金貨、支出予定額との差額……。そこまでは問題ない。ところが、その数字の横にある『公爵家関連事業』という文字を見た途端、脳裏にアレクサンドル様の姿が浮かんできて、私は思わず筆を止めてしまった。
昨日までなら、この項目を見ても公爵家の財政状況としか考えなかっただろう。今は違う。公爵家という言葉だけで、あの人の顔が出てくる。
「……重症ですわね」
私は額へ手を当ててしまう。仕事中まで思い出すなんて、どうかしている。私は恋愛よりも国家予算、舞踏会よりも決算書、甘い菓子よりも帳簿の数字を優先して生きてきたのだ。
そんな私が、男性一人のことを考えて仕事の手を止めるなど、今までなら絶対に許さなかったはずだ。それなのに、止めようとすると余計に思い出してしまう。しかも困ったことに、その記憶を嫌だと思えない自分がいる。昨日、私を支えてくれた腕の感触まで覚えている。私はそこまで思い出してから、慌てて書類へ視線を戻した。
「……忘れましょう。仕事ですわ」
バンッ!
執務室の扉が勢いよく開いた。
「セレスティーナ、おはようございます!」
聞き慣れた声に顔を上げると、そこに立っていたのはエルメリンダだった。今日も朝から妙に元気で、両手には財務局員たちへ配る菓子の籠まで抱えている。
エルメリンダは私の顔を見るなり、ニッコリと笑いかけてきた。その笑顔を見た瞬間、私は嫌な予感がしてくる。
彼女は人の変化を見るのが異様に早いのだ。服装の違い、声の調子、食事の量、睡眠不足による目元の変化まで、私自身が気づく前に見抜いてしまう。そんな彼女が、私の顔を数秒眺めて何も言わないはずがなかった。
「……何ですの?」
「いえ」
「その顔は何かありますわね」
「ありません」
「あります」
即答である。
私は筆を置くと、エルメリンダは籠を机の端へ置き、椅子を引いて私の正面へ座る。妙に真剣な顔をしている。嫌な予感が徐々に確信へ変わっていく。私は逃げ道を探したが、彼女はすでに机の上へ両肘をついていた。
「セレスティーナ」
「何ですの?」
「先日、どなたと会いました?」
「パーティーに参加しましたので、多くの方と会いましたわ」
「その中に男性はいらっしゃいました?」
「もちろんいましたわ」
「その中で、特に印象に残った方は?」
「……特には」
答えながら、自分でも分かっている。
嘘だ。
しかも、私が一番苦手としている種類の嘘だった。事実を隠すために言葉を選び、相手の目を見ないようにする。それは前世の私が散々やってきたことだ。
私は視線を逸らしたのだが、その瞬間、エルメリンダの目がキラキラと輝きだす。
「いらっしゃったのですね」
「……何がですの?」
「印象に残った男性です」
「そんなことは言っておりませんわ」
「では、なぜ目を逸らしたのですか?」
「それは……」
「頬も少し赤いです」
「室内が暑いのですわ」
「今日はかなり涼しいですよ」
「……」
逃げられない。私は机の上の書類へ視線を落とした。すると、エルメリンダが身を乗り出した。
「お名前は?」
「言う必要がありますの?」
「あります」
「ありませんわ」
「公爵家の方ですか?」
「……なぜ、それを?」
「当たったのですね」
「……」
しまった。
完全に引っかかった。
エルメリンダは嬉しそうに笑っている。彼女の勘は以前から鋭かったが、今日は特に酷い。私が何を隠しているのかを、本人である私より先に見つけていく。
「アレクサンドル様、ですよね」
「……どうして」
「セレスティーナ」
「はい」
「今、ものすごく分かりやすい顔をしました」
「私は財務局次席執務官ですわよ。そんな簡単に感情を表に出すはずが……」
「出ています」
「……」
「今までのセレスティーナなら、男性の名前を出しただけで『財務上の関係があるのですか?』と聞き返していたはずです。でも今日は違います。名前を聞いただけで、目が少し優しくなりました」
私は黙り込んでしまう。自分では分からない。だが、言われてみれば確かにそうなのかもしれない。アレクサンドル様の名前を聞くと、胸の奥が少しだけ温かくなる。その感情を否定しようとすると、余計に意識してしまう。
「……エルメリンダ」
「はい」
「私は、その方を少し気にしているだけですわ」
「少し?」
「少しです」
「どれくらいですか?」
「……知りませんわ」
「また会いたいですか?」
「……はい」
「もっと話したいですか?」
「……はい」
「その方が他の女性と親しそうに話していたら、気になりますか?」
「それは……」
そこで私は言葉を止めた。昨日、自分でも驚いた感情を思い出した。アレクサンドル様が誰か別の女性と親しそうに笑っている姿を想像したとき、私は嫌だと思った。理由を考えるより先に、嫌だった。
「……少し、嫌ですわ」
「では、もう答えは出ていますね」
「何の答えですの?」
「恋です!」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が大きく跳ねてしまう。私は反論しようと口を開いたものの、何も言えなくなってしまう。以前なら即座に否定していた筈である。恋など仕事の邪魔になる。恋愛感情など判断を鈍らせる。そう思っていたはずなのに、今は違う。否定したい気持ちよりも、認めてしまいたい気持ちのほうが強かった。
「……そう、なのかもしれませんわね」
「やっぱり」
「そんなに嬉しそうな顔をしないでくださいませ」
「だって、セレスティーナが恋をしたのですよ?」
「大げさですわ」
「大事件です」
「財務局に報告する必要はありませんわよ」
「しませんよ」
「絶対にですわよ?」
「もちろんです」
エルメリンダの前なら、妙に取り繕う必要はない。そのことに気づいたとき、私はふと左目へ意識を向けた。いつものように、淡い光が宿っている。消えていない。何も変わっていない。
神様の言葉が脳裏に蘇ってくる。
私自身が心から相手を大切に思うこと。
そして相手から向けられる愛情にも、一片の偽りがないこと。
その二つが揃ったとき、左目は役目を終える。
「……まだ、ですわね」
「何がですか?」
「いえ、こちらの話ですわ」
私は左目を隠すように髪へ触れる。これは誰にも絶対話せない。エルメリンダにも、レナート殿下にも、私の家族にも。私が本音を見抜けることを知られれば、私自身の生き方が変わってしまう。だから、この力については秘密にしておく。
そして今は、それ以上に大切なことがある。
私はアレクサンドル様を、もっと知りたいと思っているということだ。それが恋なのだとしたら、私はまだ、その入口に立ったばかりなのだろう。
「セレスティーナ?」
「何でもありませんわ」
私は書類へ視線を戻し、意識を切り替えることにする。書類の数字は相変わらず整然と並んでいる。なのに、その向こう側には昨日とは違う世界が広がっているように感じられてしまった。
仕事をしていても、ふと彼を思い出してしまう。名前を聞くだけで嬉しくなる。もう一度会いたいと思う。その気持ちは、数字のように計算して消せるものではなかった。
「……まずは仕事ですわ」
そう呟きながらも、胸の奥では別の言葉が生まれていた。
また、会いたい。
私はその気持ちを、今度は否定しなかった。
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