第085話 番犬の胸に芽生えた恋心は、まだ左目の光を消しませんわ
その夜、私は自室の窓辺に立っていた。王都の夜は静かで、遠くの通りを走る馬車の音が時折聞こえてくる。いつもなら、この時間には明日の財務局の予定を確認し、銀の算盤を机へ置いて、早く眠る準備をしている。睡眠は大切だ。仕事の効率を落とさないためにも、余計なことを考える時間など必要ない。そう思っていたはずなのに、今日はどうしても眠る気になれなかった。原因は分かっている。あの公爵家の嫡男だ。私は窓ガラスに映った自分の顔を見つめ、何度目か分からないため息をついた。
「……どうして、こんなに気になるのかしら?」
声に出してみても、答えは出てこない。
助けてもらったから気になるのだろうか。それなら、感謝で説明できる。公爵家の嫡男だから気になるのだろうか。それなら、身分への興味で説明できる。
何より、私の左目に彼の本音が映らなかったことが気になるのだろうか。それなら、財務を担当する者としての好奇心で説明できる。
私は頭の中で理由を並べてみたものの、どれも胸の奥に残っている感情を完全には説明できなかった。アレクサンドル様の名前を思い浮かべると、なぜか胸が少しだけ温かくなる。もう一度会いたい。もう少し話してみたい。どんな人なのか、もっと知りたい。そこまで考えたところで、私は自分の頬へ手を当てた。
「……まさか、恋ですの?」
口にした途端、顔が熱くなる。私は慌てて窓から離れ、机の前へ腰を下ろして考える。
恋。
私には縁のないものだと思っていた。
前世では恋人に夢を追いかけるための金が必要だと言われ、私が働いて得たお金を渡し続けた。その結果、私は食事を削ってまで相手を支え、最後には何も残らなかった。だから今世では、誰かを好きになる前に、その人間が信用できるかどうかを確かめると決めていた。
優しい言葉を聞けば裏側を見る。親切にされれば目的を考える。愛情を向けられれば、本当に愛情なのかを確かめる。それが私を守る方法だった。それなのに、アレクサンドル様のことを考えると、そんな計算より先に、ただ会いたいという気持ちが出てくる。
「……これは困りましたわね」
私は銀の算盤を手に取り、珠を一つ弾く。数字なら簡単だ。収入がいくらで、支出がいくらで、差額がいくらなのか。原因が分かれば修正できる。証拠があれば判断できる。数字には必ず答えがある。なのに、自分の心だけは、いくら計算しても答えが出ない。私は算盤を見つめながら、もう一度小さく呟いた。
「……恋、なのかしら?」
その瞬間、左目に触れた指先が止まった。前世とは違う、もっと遠い記憶が蘇ったからだ。
私がまだセレスティーナという名前を持つ前、前世の人生を終え、白い光の中で次の人生へ進もうとしていたときの記憶。そこには神がいた。あのときの私は、もう二度と誰かに利用されたくないという気持ちでいっぱいだった。だから、神から与えられる力の説明を、一言も聞き逃さないようにしていた。
<次は二度と嘘に屈さぬよう、貴女に真実を与えましょう。この左目が、貴女を虚飾から守る盾となるはず。誰にも、貴女の尊厳を二度と奪わせないために>
神は私へそう告げた。
<……しかし、覚えておきなさい。この力は、貴女が再び『自分を騙そうとする言葉』を耳にしたとき、それを拒絶する意志と共に目覚めるでしょう。それは貴女が搾取される未来を拒むための、防衛のトリガーなのです>
「……防衛のトリガー」
私はあのとき、何度も頷いた。
もう騙されたくない。
もう利用されたくない。
誰かの都合のために、自分の人生を差し出したくない。
そんな私にとって、それは願ってもない力だった。だが、神はそれだけでは終わらなかった。少しだけ間を置いて、私をまっすぐ見つめてきた。
「だが、その力は永遠に必要なものではありません」
「……どういう意味ですの?」
「いつか、あなたが心から誰かを大切に思う日が来るでしょう。ただ好きになるだけではない。興味を持つことでも、会いたいと思うことでもない。自分の損得を抜きにして、その者が幸せであることを心から願えるほど、その者を大切に思うことなのです」
「自分の損得を……抜きにして?」
<そう。あなたが何かを得るためではない。その者が貴女を必要とするかどうかさえ関係ない。ただ、その者が幸せであることを願えるほどの想いのことです>
私はその言葉を聞いて、少しだけ考えた。だが、その先にあるもう一つの条件を聞いたとき、私はさらに驚いた。
「そして、もう一つ条件があるのです」
「もう一つ?」
<ただし、この力はあくまで、貴女を『敵』から守るためのもの。もしもいつか、貴女が心から誰かを慈しみ、そして相手もまた貴女に偽りのない真実の愛を注いだとき……その絆の前で、この左目は光を失うでしょう。貴女が本当に『信じる』ことを選んだとき、力は役割を終えるのです>
私は息を呑んだ。
<相手の本音が見えなくなるのではありません。貴女を欺く者から守るために与えた力、そのものが役目を終えるのです>
「力を……失う?」
<それは、貴女が、その者を疑う必要のないところまで辿り着いた証なのです>
私は自室の鏡の前で、左目へそっと触れた。今も淡い光が宿っている。その光を見ると、あの神の言葉がはっきりと思い出される。条件は二つ。ただ誰かを好きになるだけではない。私自身が心からその人を大切に思い、自分の損得を抜きにして、その人の幸せを願えること。そして相手から私へ向けられる愛情にも、一片の偽りがないこと。その二つが同時に揃ったときだけ、左目の光が消える。
「……では、まだですわね」
私は鏡の中の自分へ話しかけた。アレクサンドル様は、確かに誠実なのは間違いない。私が財務局の人間だと知っても態度を変えなかった。私を助けた理由を尋ねても、左目に映った本音は、口にした言葉と同じだった。それは私にとって、とても珍しいことで、だから気になった。
もっと知りたい。
もう一度会いたい。
それは確かに、これまでの私にはなかった感情だ。でも、それだけでは神の言う条件には届いていない。
「……私は、まだアレクサンドル様に何かを望んでいますもの」
そう呟くと、胸が少しだけ痛む。
彼に会いたい。
彼に話しかけたい。
できれば、彼にも私を知ってほしい。
私のことを少しでも気にしてほしい。
そんな気持ちがある。ならば、まだ自分の損得を完全に捨てているわけではない。彼が私を必要としなくても幸せでいてほしいと願えるほど、私は彼を知らない。彼が私とは別の女性を好きになったとして、それでも心から幸せを願えるのかと問われれば、今の私は答えられない。
「……それは、嫌ですわね」
思わず本音が口から漏れてしまう。私は自分で言ってから、目を丸くしてしまった。
嫌なのだ。
アレクサンドル様が私ではない誰かを見つめて、嬉しそうに笑うことを想像すると、胸の奥がざわつく。そんな自分の感情に気づいて、私は鏡の前で顔を覆った。
「……これでは、まだまだですわ」
恋心が芽生えた。それは認めてもいい。エルメリンダに何を言われても、もう完全には否定できない。名前を聞くだけで嬉しくなる。会いたいと思う。もっと知りたいと思う。少しでも自分を見てほしいと思う。それだけでも、私にとっては大きな変化なのだ。
前世の私は、誰かを好きになることが怖かった。好意を利用されることが怖かった。優しさを信じることが怖かった。だから私は、相手の言葉を信じる前に必ず裏側を確かめた。でも今は、誰かを知りたいと思っている。
「……変ですわね、私」
私は鏡へ向かって笑った。すると、その瞬間だった。左目の奥に、ほんの小さな違和感が走った。チクリ、とした感覚だった。私は思わず瞬きをする。鏡の中の左目を見つめると、淡い光が一瞬だけ揺れたように見えた。
「……今、揺れました? ……気のせい、ですわね」
そう言いながらも、私は少しだけ胸が高鳴っていることに気づいた。もし今の違和感が、神の言葉と何か関係しているのなら……。そこまで考えて、私は首を振る。
まだ早い。
私の気持ちは、そこまで深くない。アレクサンドル様のことをもっと知りたいと思っている。それは確かだ。でも、何を犠牲にしてでも彼の幸せを願えるほどなのかと問われれば、まだ分からない。だから左目の光が消える理由もない。
「……焦る必要はありませんわ」
私は自分へ言い聞かせるように呟く。恋というものが本当にそういうものなら、少しずつでいい。会って、話して、知って、また会いたいと思う。その積み重ねの先に、いつか本当に誰かを心から大切に思える日が来るのかもしれない。そのときになって初めて、左目の光が消えるのだ。今はまだ、この力は私を守ってくれている。だから私は、それを怖がる必要も、無理に手放そうとする必要もない。
私は机へ戻り、銀の算盤を手に取る。珠を一つ弾くと、パチリと小さな音が響く。もう一つ弾く。パチリ。いつもの音だ。その音を聞きながら、私は明日の仕事の予定を頭の中で確認する。午前は王宮予算の確認、午後は地方税収の報告書、その後に財務局職員から上がってくる書類の決裁。いつもの仕事だ。いつも通りの一日になるはずだった。
「……なのに」
私は算盤を見つめながら、またアレクサンドル様の顔を思い浮かべてしまった。次に会ったら、何を話そう。財務の話ではなく、もっと普通の話をしてみたい。好きな食べ物は何かしら。休日は何をしているのかしら。公爵家の嫡男としてではなく、一人の人間として、どんなことを考えているのか知りたい。そんなことを考えているうちに、また頬が熱くなった。
「……もう少しだけ、知りたいですわね。……恋なのかどうかは、もう少し考えてみましょう」
そう言った私は、少しだけ笑う。そして最後にもう一度、アレクサンドル様の名前を心の中で呼んだ。その瞬間、左目の光がほんのわずかに揺れた気がした。私は驚いて鏡を覗き込んだが、やはり光は消えていない。
「……まだ、ですわね」
私はそう呟き、銀の算盤を机へ戻した。左目の光は、今夜も私を守るように静かに輝いている。
だが、その光の下では、私自身も知らなかった恋心が、確かに小さな芽を出し始めていた。
ブックマーク、評価をお願い致します。
レビュー、感想等もお待ちしております。
誤字、脱字等がありましたらご報告をお願い致します。




