第084話 番犬の恋心を見抜いた親友は、逃げ道を塞ぎますわ
私は執務机に積み上げられた帳簿を一冊ずつ処理し、銀の算盤を弾きながら数字の整合性を確認していた。三十七頁の支出額と四十二頁の決済額にわずかな差がある。数字そのものは小さなものだが、こういう小さな差を放置すれば、やがて大きな穴になる。私は差額の原因を確認するため、担当者へ照会書を回した。
その直後、机の端に置かれた別の書類へ目を移す。ベルナール公爵家から提出された税務関連の報告書だった。何気なく名前を確認した瞬間、私の指がぴたりと止まった。アレクサンドル・ド・ベルナール。その名前を見ただけなのに、あの夜のことが鮮明に蘇る。転びかけた私を支えた腕。落ち着いた声。そして、言葉と考えていることが同じだった、あの不思議な青年。私は小さく息を吐き、書類へ視線を戻した。仕事に集中すればいい。それだけの話なのに、なぜか胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。
「……ベルナール公爵家からの提出書類ですか」
「はい。納税額の確認だけですので、処理自体は難しくありませんわ」
声をかけてきた財務局員へ答えながら、私は書類の内容を確認した。数字に問題はない。記載にも不備はない。いつもならそこで終わるはずだった。ところが、担当者が書類を持って戻ろうとしたところで、私はなぜか呼び止めてしまった。
「お待ちなさい。ベルナール公爵家の提出者は、どなたでしたの?」
「え? 確か、公爵家の家令だったと思いますが」
「そう……ですの」
それだけ確認して、私は再び帳簿へ目を落とした。何を確認したかったのか、自分でも分からない。アレクサンドル本人が提出したわけではない。それなら、この質問に意味などないはずだった。なのに、彼の名前が書かれた紙を見た瞬間、私は彼がここへ来る可能性を考えてしまった。
もし本人が来たら、何を話そう。財務の話なら自然だ。公爵家の資産管理について聞いてもいい。あの夜の礼を改めて伝えてもいい。そこまで考えたところで、私は算盤を弾く手を止めた。仕事中に、どうしてこんなことを考えているのか。私は自分の思考を整理するように、珠を一つだけ弾いた。パチリと乾いた音が執務室に響く。数字なら、原因を探せば答えが出る。ところが今の私の胸にあるものは、どれだけ考えても帳簿のようには整理できなかった。
「まあまあ。ずいぶん楽しそうですわね、セレスティーナ」
昼過ぎ、財務局の扉が開き、エルメリンダが顔を覗かせた。両手にはいつもの差し入れがある。私は彼女を見て、安心してしまう。彼女なら仕事の邪魔をせず、私の休憩時間もきちんと守ってくれる。そう思った直後、エルメリンダの視線が机の上へ移った。ベルナール公爵家の書類。彼女はそれを一瞬見ただけだった。それから私の顔へ視線を戻し、何も言わずに微笑んだ。その笑顔が妙に気になり、私は眉を寄せた。
「何ですの、その顔は」
エルメリンダは以前から、妙に勘が鋭かった。人が隠そうとした小さな変化を見つけるのが得意で、声の調子がほんの少し変わっただけでも、相手が何かを隠していると察してしまう。しかも、それは単なる思い込みではない。彼女は私が何も言わなくても、疲れている日には休ませようとし、何か悩んでいるときには誰より早く気づいてくれた。財務の数字なら私のほうが遥かに強い。だが、人の感情や表情の変化を読み取ることについては、エルメリンダのほうが一枚上手だった。だからこそ私は、彼女がこちらを見て微笑んだとき、妙な胸騒ぎを覚えた。
「別に何もありませんわ。ただ、セレスティーナが珍しく一枚の書類を眺めながら、ずいぶん長い時間を使っていましたから」
「確認事項が多かっただけですわ」
「アレクサンドル様の書類?」
「……そうですわ」
「名前を見ただけで嬉しい?」
「嬉しくありませんわ」
「会えたら嬉しい?」
「……それは」
「もう一度会いたい?」
「…………」
「お話ししたい?」
「……少しは」
「もっと知りたい?」
「……そう、ですわね」
「では、好き?」
「そこまでは」
私は言葉を止めた。エルメリンダは満足そうに頷いている。完全に逃げ道を塞がれた気分だった。普段の彼女なら、ここまで一気に質問を重ねることはない。だが、今日ばかりは違ったらしい。私は誤魔化すように紅茶へ手を伸ばしたものの、彼女は容赦なく次の質問を投げてくる。
「会うと緊張します?」
「少し」
「名前を呼ばれると?」
「……気になりますわ」
「他の殿方に同じことをされたら?」
「別に何とも思いませんわ」
「アレクサンドル様なら?」
「…………嬉しい、ですわ」
「恋ですわね」
「まだ決めていませんわ!」
思わず声が大きくなり、近くで仕事をしていた財務局員たちがこちらを振り返った。私は慌てて咳払いをし、何事もなかったように帳簿へ視線を戻す。
エルメリンダは肩を震わせながら笑っていた。まったく、親友というものは恐ろしい。数字の不正なら、証拠を積み上げて追い詰めればいい。だが、感情については証拠を突きつけられる側になるらしい。
「……以前、レナート殿下のことを考えていた時とは違いますわね」
エルメリンダの声が少しだけ柔らかくなる。私は黙って紅茶を見つめる。レナート殿下を大切に思っていることに変わりはない。共に国を支える仲間として、信頼している。それでも、今の私の胸にある感情は、あの頃とは違っていた。殿下に対して感じていたのは、支えてくれる人への安心だった。アレクサンドルに対して感じているのは、もっと知りたいという気持ち。そして、もう一度会いたいという願いだった。そんな願いを抱くこと自体が、私には新鮮だった。
「……私、どうしてこんなことを考えているのでしょう」
「好きだからではありませんの?」
「簡単に結論を出しすぎですわ」
「では、帳簿のように計算してみます?」
「できるものなら、そうしたいですわ」
私がそう答えると、エルメリンダは楽しそうに笑う。
私は銀の算盤を手に取り、珠を弾く。数字はいつも通り、正しい場所へ収まる。それなのに、胸の奥だけはどうしても計算が合わない。アレクサンドルの名前を思い出すだけで嬉しくなる。会えると分かれば、少しだけ楽しみになる。もっと話したいと思う。そして、彼がどんな人なのか、もっと知りたいと思ってしまう。その事実を一つずつ並べていけば、答えはもう見えているのかもしれない。
「まぁ、いいですわ」
「何がですの?」
「今はまだ、セレスティーナが認めなくても」
「何をですの?」
「恋ですわ」
「……エルメリンダ」
「なぁに?」
「その顔をやめなさい!」
私は頬が熱くなるのを感じながら、帳簿へ視線を落とした。
すると、その日の夕方、一通の封書が財務局へ届いた。差出人はベルナール公爵家。次回の財務協議について、アレクサンドル本人が代理として出席する旨が記されている。私はその一文を読んだ瞬間、胸の奥が小さく跳ねるのを感じてしまう。
会える。
その事実だけで、今日一日の疲れが少し軽くなってくる。私は封書を机の上へ置き、誰にも見られないように小さく息を吐いた。
仕事だから会う。
それだけのこと。
そう自分に言い聞かせながらも、次に彼と会ったら何を話そうかと考えている自分を、もう止めることはできなかった。
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