第083話 左目に映らぬ公爵家嫡男、その正体を確かめますわ
アレクサンドル・ド・ベルナールと出会ってから、数日が過ぎた。私は相変わらず財務局で帳簿と向き合い、朝から晩まで数字を追い続けている。仕事そのものに変化はない。変わったのは、私のほうだった。
以前なら書類へ目を落とせば、それ以外のことなどすぐに頭から消えていた。それなのに最近は、ふとした瞬間に彼の姿が浮かんでくる。銀の算盤を弾きながら、私はそのたびに自分へ言い聞かせていた。彼が気になるのは、左目で本音を確認できないからだ。今まで一度もなかったことだから、原因を知りたいだけ。そう考えれば、すべて説明がつく。私は今日も帳簿の数字を追いながら、何度目か分からない言い訳を胸の中で繰り返していた。
「セレスティーナ様、この支出について確認をお願いできますか?」
「どちらですの?」
「王都西地区の街路整備費です。先月より支出が増えております」
差し出された書類へ目を落とし、私は数字を確認する。増額そのものに問題はない。工事区域が広がっている。それなら当然だ。
私は関連する決裁書まで確認してから、職員へ説明する。それは、いつもの仕事だ。数字を追い、理由を見つけ、正しいものと間違っているものを分ける。それだけなのに、職員が書類を持って出ていったあと、私はなぜか窓の外へ目を向けてしまっている。王都の大通りを馬車が行き交い、それが、ベルナール公爵家の馬車ではないかと、一瞬だけ思ってしまった自分に気づき、私は慌てて視線を戻した。
「……何をしていますの、私は」
誰もいない執務室で呟き、頬杖をつく。今まで、こんなことなどなかった。誰かが財務局へ来るたび、その人物を気にすることもない。なのに今は、廊下から足音が聞こえるだけで、もしかしたら彼かもしれないと思ってしまう。
会いたいのかと問われれば、私はすぐに否定するだろう。ただ、会えれば嬉しいと思う。それだけだ。そう考えたところで、私はまた自分の言葉に引っかかった。会えれば嬉しい。なぜ嬉しいのだろう。答えは簡単なはずなのに、私はその先を考えようとすると、妙に落ち着かなくなった。
昼前、別の職員が新しい書類を持ってきた。私は受け取って内容を確認しながら、何気なく尋ねる。
「本日は来客の予定がありまして?」
「はい。午後にベルナール公爵家から書類を届けに来る予定だそうです」
「ベルナール公爵家……。アレクサンドル様がいらっしゃるのかしら?」
「さあ……そこまでは聞いておりません」
「そうですわね。私も別に、誰が来るのか確認したかったわけではありませんの」
「はい?」
「何でもありませんわ」
私は慌てて書類へ視線を戻した。自分でも分かるほど不自然だった。どうして名前を聞いてしまったのだろう。しかも、よりによって自分から。職員が出ていったあと、私は机へ突っ伏したくなる衝動を必死にこらえた。財務局の職員に、私が公爵家の嫡男を気にしているなどと思われたくない。そもそも、私自身が認めていないのだから。
午後になると、廊下から来客を告げる声が聞こえた。私は手元の書類へ視線を落としたまま仕事を続けていたが、扉の向こうから聞こえた声に、指が止まった。
「セレスティーナ様、お久しぶりです」
そこに立っていたのは、アレクサンドルだった。
「……アレクサンドル様」
「こんにちは。お仕事中でしたか?」
「ええ。もちろんですわ」
どうしてだろう。顔を見ただけなのに、胸の奥がふわりと軽くなる。さっきまで数字が合わずに少し苛立っていたことさえ、どうでもよくなってしまう。私はそんな自分に気づき、慌てて平静を装う。
「今日は公爵家からの書類を届けに?」
「はい。父に頼まれまして」
「そうでしたの」
「それと……、またセレスティーナ様にお会いできるかもしれないと思っていました」
アレクサンドルが少しだけ笑い、その笑顔に心臓が跳ねてしまった。
「……私に?」
「はい。先日の勉強会が楽しかったので」
「財政の勉強が?」
「それもあります」
「それも?」
「セレスティーナ様と話せたことです」
私は返事ができなくなった。彼は何でもないことのように言っている。私だけが勝手に動揺しているのが、ひどく悔しかった。私は視線を逸らし、机の上の算盤へ手を伸ばした。意味もなく珠を一つ弾く。
パチリ。
「……少し、お時間ありますかしら」
「はい。もちろんです」
私は立ち上がり、彼を応接用の小さな部屋へ案内した。向かい合って座ると、彼は最近の王都の様子や領地の話をしてくれた。私は相槌を打ちながら、その話を聞いている。以前なら、公爵家の嫡男が何を考えているのかなど、仕事と関係がなければ興味を持たなかったはずだ。なのに今は、彼がどんな話をするのか、その声を聞くことさえ楽しい。話が途切れると、少し寂しいと思ってしまう。
「セレスティーナ様は、今日は少し静かですね」
「そうかしら?」
「いつもはもっと勢いよく話されるので」
「財務の話をしていないからですわ」
「では、財務の話をしましょうか?」
「……ふふふ。本当に変な方ですわね」
「よく言われます」
「でも……」
私はそこで言葉を止めた。続きを言うのが、なぜか恥ずかしい。
「でも?」
「……いえ、何でもありませんわ」
アレクサンドルは追及せず、ただ微笑んだ。その距離感が心地よかった。私が言いたくないことを無理に聞こうとしない。私が沈黙すれば待ってくれる。そんな些細なことが、どうしようもなく嬉しい。
彼が帰ったあと、私は一人で執務室へ戻った。机の上には、途中まで確認していた帳簿が残っている。私は椅子へ座り、銀の算盤を手に取る。しかし、いつものようには集中できなかった。目の前の数字を追っているのに、頭の中には先ほどの会話が浮かんでいる。
また会えたことが嬉しかった。
もっと話したかった。
帰ってしまったことが、少し寂しい。
私は算盤を机へ置き、胸元へ手を当てた。どうして、こんな気持ちになるのだろう。私は恋など必要ないと思っていた。
誰かを信じれば、その分だけ傷つく。前世で私は、それを嫌というほど知っている。だから今度こそ、自分の力で生きると決めた。誰かに寄りかからず、誰かに利用されず、自分の人生を自分で選ぶ。その決意は今も変わっていない。
それなのに。
アレクサンドルといると、不思議と警戒する必要がなくなる。何かを疑わなくてもいい。言葉の裏を探さなくてもいい。ただ一緒に話しているだけで、心が穏やかになる。私はそれが怖かった。こんなふうに誰かを特別に思うことが、いつか自分を弱くするのではないかと思ったからだ。
私は窓の外へ目を向けた。夕暮れの王都が赤く染まり、遠くを走る馬車の音が聞こえる。胸の中に残った温かな感覚は、いつまで経っても消えてくれなかった。
「……気になるだけですわ」
そう呟いてみる。
だが、その言葉だけでは、もう自分を納得させられなかった。私はいつの間にか、彼が来るかもしれないというだけで嬉しくなり、彼と話せる時間を待つようになっている。
それはきっと、ただの興味ではない。
まだ恋だと認めるには、少しだけ怖い。
それでも私の心は、もう少しずつ、アレクサンドル・ド・ベルナールという一人の男性へ向かい始めていた。
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