第082話 転びかけた番犬を救った公爵家嫡男、その本音だけが左目に映りませんわ
隣国から帰国して数日が過ぎた頃、私は王家主催のパーティーへ出席していた。大広間の天井から吊り下げられたシャンデリアが眩しいほどの光を放ち、磨き上げられた床には色とりどりのドレスと礼服が行き交っている。あちこちから笑い声やグラスの触れ合う音が聞こえてくるものの、私にとっては財務局で帳簿をめくっている時間のほうが、よほど有意義に思える。
今夜もできることなら欠席したかったのだが、王家からの招待を断るわけにもいかない。私は壁際で菓子を一つ口へ運びながら、「そろそろ帰っても問題ない頃合いかしら」と考えていた。
隣国から戻ったばかりなのだから、財務局には確認しなければならない書類が山ほど残っている。こんなところで貴族同士の世間話を聞いているより、数字と向き合っていたほうがずっと気楽だ。そう思いながら人の間を抜け、会場の端へ移動しようとしたときだった。私の靴が、ドレスの裾を踏んだ。身体が前へ傾き、反射的に手を伸ばしたものの、床へ倒れる未来しか見えない。「しまった」と思った次の瞬間、私は誰かの腕に身体を支えられていた。
「危ない!」
「……っ」
私は倒れずに済んだことへ安堵しながら、支えてくれた人物を見上げた。目の前には、見覚えのない青年が立っている。
仕立ての良い礼服を身につけ、その表情には慌てた様子がほとんどない。私は支えてもらった腕からゆっくり離れ、乱れてしまったドレスの裾を手で整えた。周囲の視線が集まっているのを感じたが、今はそんなことを気にしている場合ではない。まずは助けてもらった礼を言うべきだ。私は青年へ向き直り、いつものように相手の本音を確かめるため、左目へ意識を集中させる。
人の言葉と本心が一致しているとは限らない。私はそれを嫌というほど知っている。親切そうな言葉の裏に打算が隠れていることもあれば、笑顔の奥に敵意が潜んでいることもある。それを見抜くのが、私の左目だった。だから今回も、助けてもらった礼を述べる前に本音を確認した。ところが、何も見えない。私は一瞬、自分の目を疑った。
「大丈夫ですか?」
「ええ。助けていただき、ありがとうございますわ」
「それならよかったです。どうやらドレスの裾を踏んでしまわれたようですね」
「お恥ずかしいところをお見せしましたわ」
「誰にでもあることですよ。どうかお気になさらず」
私は青年の顔を見つめたまま、左目へさらに意識を集中させた。見えない。何度試しても、何も浮かんでこない。私は少しだけ視線を外し、近くにいた令嬢へ左目を向けてみた。すると、すぐに本音が見える。表面上は笑顔で友人と話している令嬢だったが、その心の中には別の言葉が浮かんでいる。
【まぁ、よくこんな派手な色を選べたものね。本人は似合っているつもりなのかしら】
私はすぐに青年へ視線を戻す。しかし、やはり何も見えない。私はさらに別の方向へ目を向けた。壁際で空いたグラスを回収している使用人がいる。左目を向けると、その人物の本音もすぐに浮かんだ。
【また空いたグラスを持ってこられた……もう何杯目なのよ。腕が痛くて仕方ないわ】
どうやら左目そのものに異常があるわけではない。周囲の人間の本音は、今まで通り見えている。ならば、問題は目の前の青年だ。私はもう一度だけ青年へ左目を向けるが、何もない。そこには、隠された本音そのものが存在しないように見えた。私はこれまで、こんな人間に会ったことがない。何を考えているのか見えないのではない。正確には、私の左目で拾うべきものが何もない。私はその奇妙な感覚に戸惑いながらも、本人へ直接尋ねることにした。能力で分からないのなら、言葉を聞けばいい。それだけの話なのだから。
「先ほどから、私の顔をじっと見ておられますが……何かございましたか?」
「少し確認したいことがございますの」
「私に答えられることであれば、どうぞ」
「先ほど、私を助けてくださったことに、何か理由がおありでしたの?」
自分でも変な質問だと思った。普通なら、倒れそうになったところを助けてもらえば礼を言って終わる。それなのに私は、相手がなぜ助けたのかを確認している。だが、仕方がない。私の左目には何も映らないのだから。
青年は少し考えるように私を見たあと、穏やかな口調で答えた。
「理由ですか? 倒れそうな方がいれば、助けるのが普通だと思っただけです」
【倒れそうだったから助けた。それ以上の理由はない】
私は思わず目を見開いてしまった。
見えた。だが、今まで見てきた本音とは違う。
青年が口にした言葉と、左目に映った本音が完全に一致している。私はこれまで、人の言葉の裏側を読むことに慣れていた。だからこそ、裏側がないことに強い違和感を覚えてしまう。
青年は私の反応を不思議そうに見ているが、私が何に驚いているのかまでは分かっていないようだ。私はもう一つ確かめることにした。もし相手が私の身分を知っていたとしても、本当に同じことをするのだろうか。財務局の人間、それも王の番犬と呼ばれる私を助けることで、何か得をしようとは考えなかったのか。私は青年の答えを待った。
「では、私が財務局の人間だとご存じだったとしても、同じことをなさいました?」
「もちろんです。財務局の方だから助けたわけではありませんから」
【財務局の人間かどうかは関係ない。困っている人を助けただけだ】
また同じ。私はしばらく言葉を失ってしまう。ここまで一致する人間を、私は見たことがない。普通なら、言葉と本音の間には何らかの差がある。それが小さな見栄であったり、相手への警戒であったり、隠したい欲望であったりする。私の左目は、そうした僅かな差を映し出してきた。
だが、この青年にはそれがない。私は目の前の人物を観察しながら、これは能力の問題ではなく、この人自身の問題なのだろうかと考えた。私がこれまで知らなかった種類の人間なのかもしれない。そう思うと、先ほどまで早く帰りたいとしか思っていなかったパーティーで、初めて興味を引かれるものができた。
「……変わった方ですのね」
「そうでしょうか?」
「ええ。少なくとも、私にはそう見えますわ」
「では、お互い様ですね」
「なぜですの?」
「私も、あなたは少し変わった方だと思っています」
【本当に変わった方だと思う。何を考えているのか、少し気になる】
私はまた黙ってしまう。やはり、言葉と本音が同じだ。私は今まで、左目で相手の本心を確認し、それを踏まえて会話を進めてきた。だが、この青年については、それができない。だからこそ、本人が口にする言葉をそのまま受け取るしかない。考えてみれば、それは普通のことなのだろう。
人間は本来、相手の言葉を聞き、その表情や態度から何を考えているのかを判断する。私は左目という特殊な力があるせいで、その当たり前の行為を必要としてこなかった。私は青年の顔を見ながら、奇妙な感覚を覚えていた。能力を使えないことへの不安ではない。むしろ、自分自身で相手を知ろうとしていることが新鮮だった。
「失礼いたしました。まだ名乗っておりませんでしたわね。セレスティーナ・マッセですわ」
「存じています。王の番犬と呼ばれている方でしょう?」
「……その呼び名を、本人へ直接おっしゃる方は珍しいですわね」
「そうなのですか?」
「普通は、もう少し遠慮なさいますわ」
「では、失礼いたしました」
【王の番犬と呼ばれているからといって、怖がる必要はないと思う】
やはり同じだ。
王の番犬という呼び名を聞いても、彼の本音には恐怖も打算も浮かんでいない。私は自分の評判が、貴族社会でどれほど広がっているのかを改めて思い出す。
帳簿の不正を見つければ追及し、隠された資金を見つければ追跡し、必要ならば相手の爵位すら奪う。そんな私を恐れる者は少なくない。むしろ、恐れないほうが珍しい。
それなのに、この青年は妙に自然だった。私はその理由を知りたくなったが、ここで問い詰めるのも違う気がした。そこで私は、まだ聞いていなかった彼の名前を尋ねることにした。名前が分かれば、少なくとも彼がどこの誰なのかは判断できる。
「では、あなたのお名前を伺っても?」
「アレクサンドル・ド・ベルナールと申します。ベルナール公爵家の嫡男です」
「公爵家の嫡男……」
「はい」
【彼女は私の身分を知って、少し驚いているようだ】
ベルナール公爵家。その名を知らない貴族は、この国にはほとんどいないだろう。私は彼の身分を聞いたことで、先ほどまでとは違う警戒心を抱いてしまう。公爵家の嫡男ならば、私に近づく理由はいくらでも考えられる。財務局との関係を求めているのかもしれない。私の評判を利用しようとしている可能性もある。私はそう考えながら、もう一度だけ左目を向けてみる。
もし彼が何かを隠しているのなら、今度こそ分かるはずだ。私は青年の表情を見つめ、左目へ意識を集中させた。だが、やはり何もない。私は眉を寄せた。ここまで来れば、もう偶然ではない。彼の本音は見えないのではなく、彼が口にする言葉と同じ場所にある。私はその事実を、少しずつ理解し始めていた。
「今日は助けていただき、本当にありがとうございましたわ」
「いえ。怪我がなくてよかったです」
【助けられてよかったと思っている。彼女が怪我をしていなくて安心した】
私はその本音を見て、しばらく何も言えなかった。そこには本当に、それだけしかなかったからだ。
私を利用したいという欲も、王の番犬を試したいという興味も、公爵家の立場を利用して何かを得たいという考えもない。ただ、私が転ばなくてよかったと思っている。
それだけだった。
私はゆっくりと視線を外し、賑やかな大広間を見渡した。左目を使えば、今もあちらこちらから人々の本音が見えている。笑顔の裏側にある嫉妬も、親切の裏側にある打算も、疲れを隠して働く使用人の不満も、すべて私には見える。それなのに、アレクサンドル・ド・ベルナールだけは違う。私は初めて、自分の左目で見ることのできない人間と出会った。
正確には、本音が見えないのではない。口にする言葉と本音が完全に同じだから、左目が映し出すものがないのだ。私はその奇妙な事実を頭の中で何度も確かめた。そして気づけば、先ほどまで早く帰りたいと思っていた私が、もう少しだけこの青年と話してみたいと思い始めていた。
能力では測れない人間が目の前にいる。それが、私には妙に気になって仕方がなかった。
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