第081話 帰国した番犬が嗅ぎつけたのは、財務局職員の小さな帳尻合わせですわ
王都へ戻った私を最初に出迎えたのは、財務局の職員たちだった。馬車から降りた途端、正面玄関に整列した彼らが一斉に頭を下げる。その姿だけを見れば、長旅を終えた財務官への立派な帰還祝いに見えるのだが、私の左目には別のものが映っていた。
全員が緊張している。
私の顔を見た瞬間に【帰ってきた】【ついに戻ってきた】【帳簿を見られる】という思考が次々と浮かび上がり、中には【隣国の宰相を追い詰めた番犬が、今度はこちらを噛みに来る】という、とても失礼なものまで混じっている。
私は思わず足を止めてしまった。
(誰がそんな噂を流したのかしら?)
私はただ仕事をしに戻ってきただけである。そう考えながら建物へ入ると、廊下も執務室も妙に整っていた。机の上には一枚の紙すら曲がっておらず、職員たちは私と目が合うたびに姿勢を正す。どう考えても普通ではない。
「皆様、随分と綺麗になさいましたのね」
「は、はい! セレスティーナ様がお戻りになるということで、局内を整理いたしました!」
「それは結構なことですわ」
「帳簿もすべて確認しております!」
「まぁ!」
その言葉を聞いた瞬間、私は笑顔になる。財務局の職員が自発的に帳簿を確認してくれるのなら、これほどありがたい話はない。
私は案内された執務室へ入り、机の前に積まれた大量の帳簿を見つめた。ざっと見ても、普段の倍以上ある。
私は一番上の帳簿を取り上げ、表紙を開いた。記載は整っている。数字も大きくは崩れていない。領収書との照合も済んでいる。私は数ページをめくり、ある箇所で指を止めた。訂正された数字が一つ。数字の横に訂正印が押されている。さらに次のページにも一つ。その次にも一つ。私は帳簿を閉じ、職員たちへ視線を向けた。左目に映った思考が、一斉に逃げ始める。これは面白い。どうやら皆様、私が隣国へ行っている間に、何かを頑張りすぎたらしい。
「この帳簿、どなたが確認なさいましたの?」
「わ、私です」
「では、この訂正について説明していただけます?」
「それは……記載の間違いを見つけまして、正しい数字に直しました」
「訂正した理由は分かりましたわ」
私は帳簿を開き直し、訂正前の数字を指先で叩いた。パチリ、と銀の算盤を鳴らすより先に、職員の顔が青くなる。
「では、なぜ訂正前の数字を二重線で残さず、上から書き直しましたの?」
「……え?」
「帳簿は綺麗に見せるためのものではございませんわ。何が間違っていて、誰が、なぜ直したのか。それまで追えるからこそ意味があるのです」
「申し訳ありません!」
「顔を上げなさいませ。怒っているわけではありませんわ」
「……本当ですか?」
「えぁ。まだ、ですけれど」
その一言で職員たちの顔から血の気が引いた。私は思わず小さく息を吐いた。どうやら私が隣国で宰相の不正を暴いた話が、財務局の中で想像以上に大きく伝わっているらしい。
確かに私は王の番犬と呼ばれている。数字の匂いを嗅ぎつければ、その先にある不正を追うのが私の仕事だ。だが、すべての間違いを犯罪として扱うほど融通が利かないわけではない。
私は帳簿をめくりながら、左目に映る職員たちの思考を追った。どうやら発端は、私が隣国へ出発した直後だったらしい。
『セレスティーナ様が帰ってきたときに、財務局の帳簿に間違いがあったら大変だ』という一人の発言から、全員が自分の担当帳簿を確認し始めたようだ。そして一つ見つければ別の職員も探し、二つ見つければさらに別の職員が探す。結果として、誰もが自分の帳簿を疑い始め、気づけば大量の帳簿を引っ張り出していたようだ。
「つまり、皆様は私に叱られるのが怖くて、帳簿を全部調べたのですね?」
「……はい」
「そして、間違いを見つけるたびに自分たちで修正した」
「……はい」
「それで、訂正方法まで間違えた」
「…………はい」
最後の返事だけが、妙に小さい。私は目の前の帳簿の山を眺める。
なるほど。
隣国では国家予算を食い潰していた宰相を追い詰め、帰国したら自国の財務局では職員たちが私を恐れて帳簿をひっくり返していたらしい。しかも、悪事を隠すためではない。ただ怒られたくない一心である。私は思わず口元を押さえた。笑ってはいけない。財務局の威信にも関わる。だが、目の前で震えている職員たちを見ると、どうにも堪えきれない。
「皆様」
「はい!」
「わたくしは、そんなに怖い顔をしておりますか?」
「……」
「正直に答えてくださいませ」
「……少しだけ」
「少しだけですの?」
「かなり……」
室内に沈黙が落ちる。私は頬杖をつき、職員たちを眺めた。
なるほど。
自覚はなかったが、どうやら私の評判は隣国へ行っている間にも順調に成長していたらしい。私は銀の算盤を取り出し、机の上へ置き、パチリと珠を一つ弾く。職員たちが一斉に肩を震わせた。私はその反応を見て、今度こそ笑ってしまった。番犬という呼び名は、どうやら私自身が思っていた以上に浸透しているらしい。
「安心なさいませ。小さな記載ミスまで罪にはいたしませんわ」
「ほ、本当ですか?」
「ただし」
「……ただし?」
「隠したり、誤魔化したりした場合は別ですわ」
職員たちが黙り込む。私は一冊目の帳簿を手元へ引き寄せる。隣国で見た不正と比べれば、ここにあるのは取るに足らない数字の修正ばかりだ。それでも、数字を扱う仕事に『これくらいなら』という油断は許されない。小さな誤魔化しが積み重なれば、いつか大きな歪みになる。私は最初のページを開き、職員たちへ視線を向けた。誰も逃げようとはしない。ならば十分だ。叱るためではなく、正しく仕事をするために、今日も私は帳簿を見る。
「では、最初から確認いたしましょうか」
その言葉と同時に、職員たちの顔が一斉に引きつりだす。
私は銀の算盤を鳴らしながら、帰国初日の仕事を始めたのだ。
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