第080話 破綻した国庫に、番犬の最後の一打を刻みますわ
財務記録が運び込まれたのは、それから一刻も経たないうちだった。
謁見の間の隅に置かれていた長机へ、何人もの文官が次々と帳簿を積み上げていく。
革表紙の帳簿。
軍需品の納品記録。
国庫からの支払証明。
外国送金の記録。
そして宰相府が独自に管理していた資金台帳まで、机の上は見る間に紙の山へ変わっていった。
国王陛下は玉座から降り、その山を険しい顔で見つめている。宰相閣下は少し離れた場所に立たされ、ヴィクトール卿は兵士に囲まれたまま、その光景を黙って見守っていた。
私は椅子へ腰を下ろし、銀の算盤を机の右側へ置く。これだけの帳簿を前にすると、普通の財務官ならば数日を必要とするだろう。だが、私が知りたい数字はすでに絞り込まれている。軍備にいくら使ったのか、そのうち不正な利益として流れた金額はいくらなのか。そして、その穴を埋めるために我が国からいくら持ち込まれたのか。その三つが分かれば、この国がなぜ投資詐欺にまで手を伸ばしたのか、すべてが見えてくる。
国王陛下が私の向かいへ立つ。
「伯爵。本当に、ここですべて確認できるのか?」
「はい。必要な記録は揃っておりますわ」
「五年分だぞ」
「数字は年月を重ねても、突然別の数字にはなりませんもの」
私は最初の帳簿を開いた。紙をめくるたび、乾いた音が謁見の間に響きわたる。
軍需費の総額、国庫収入、国債の発行額、外国からの借入金。それらを順番に算盤へ移していくと、最初は小さかった歪みが、年を追うごとに大きくなっていった。軍備を増やすために支出が増えた。それだけなら、まだ説明はつく。しかし軍需品の購入単価が不自然に上がり、その上昇分の一部が宰相一族の商会へ流れ、さらに不足した国庫を補うために新たな借金が積み重なっている。私は珠を弾きながら、隣の帳簿へ手を伸ばした。ヴィクトール卿が集めた資金の記録と照合すると、数字がぴたりと重なった。
「……やはり、ですわね」
「何が分かった?」
「貴国は、軍備のためだけに資金を必要としていたわけではございません。軍需契約の水増しによって国庫から流出した金額を補うため、さらに外国から資金を集めていたのですわ」
「つまり……」
「軍備費が増えた。そこへ不正な支出が加わった。その結果、国庫に穴が開いた。そして、その穴を隠すためにヴィクトール卿が我が国の貴族から金を集めた」
国王陛下の顔が強張る。私はその表情を見ながら、算盤の珠を一つ戻した。
今まで国王陛下が知らされていたのは、国防のために金が必要だという説明だけだったのだろう。実際には、国家の支出そのものへ宰相一族の利益が混ざり、その結果として国庫が圧迫されていた。だからこそ、新しい資金を次々に集める必要が生まれた。投資事業は原因ではない。破綻を覆い隠すために作られた蓋だったのだ。私は帳簿を閉じることなく、宰相閣下へ視線を向けた。
「宰相閣下。これでも、まだ国家のために必要な支出だったとおっしゃいますの?」
「……」
「お答えくださいませ」
「私は……」
宰相閣下は唇を震わせた。先ほどまでならば、いくらでも言葉を並べて私を退けようとしただろう。だが、目の前に並んだ帳簿には逃げ道がない。
同じ日付。
同じ金額。
同じ商会。
そして最後に行き着く宰相一族の資産。
ひとつの証拠なら偶然だと言える。十の証拠なら調査不足だと言える。しかし五年間の記録をすべて照合してしまえば、偶然という言葉では片づけられない。私は算盤へ指を添えたまま、宰相閣下の返答を待った。
「……国を守るには、金が必要だった」
「ええ」
「軍備を削れば、他国に付け込まれる。だから私は、使える金を使っただけだ」
「ご自身の一族へ流す金まで、ですか?」
「それは……」
「国家を守るための支出と、ご自身の利益を分けて考えられなかった時点で、財政を預かる資格はございませんわ」
宰相閣下が顔を上げる。その目には怒りと屈辱が混じっていたが、私は視線を逸らさなかった。私はこの男を憎んでいるわけではない。だからこそ、帳簿に書かれた事実だけを突きつける。彼がどれほど国を守ろうと考えていたとしても、国庫から金を抜き取った事実は消えない。そして、その穴を埋めるために外国の貴族を欺く事業へ手を伸ばしたことも消えない。私は国王陛下へ向き直った。
「陛下。これが貴国の財政が破綻した原因ですわ」
「……」
「ですが、まだ一つ残っております」
「何だ?」
「我が国から集められた資金ですわ」
私はヴィクトール卿へ視線を移した。彼は黙って立っている。私は彼を責めるためではなく、事実を確認するために問いかけた。
「ヴィクトール卿。我が国から集めた資金は、最終的にいくらこちらへ送られましたの?」
「記録上では、金貨三十億枚相当です」
謁見の間がざわめいた。私はその数字を算盤へ置き、ゆっくりと珠を弾いた。三十億。それは我が国の年間予算のおよそ三割に相当する。もし全額を失えば、我が国の財政にも大きな影響が出る。だからこそ私は、ここまで追ってきたのだ。ヴィクトール卿が集めた金をそのまま隣国へ残して帰るつもりなど、最初からなかった。
「陛下」
「うむ」
「この三十億枚相当の資金について、返還を要求いたしますわ」
国王陛下はしばらく黙っていた。宰相閣下が何かを言おうとしたが、国王陛下が手を上げて止める。
「全額か?」
「はい」
「我が国には、そんな資金は残っていない」
「存じておりますわ。だからこそ、どこへ流れたのかを確認したのですもの」
私は帳簿を一冊取り上げた。軍需商会への支払い、不正に膨らんだ契約金、宰相一族へ流れた利益、その後に購入された土地と屋敷。金貨三十億枚相当のすべてが消えたわけではない。形を変えながら、この国の資産へ姿を変えて残っている。私はその一覧を国王陛下へ差し出した。
「こちらをご覧くださいませ。宰相一族の保有する土地、商会の資産、軍需契約によって得られた利益、そのすべてを合わせれば、かなりの金額になりますわ」
「これを……返還資金に充てるのか?」
「それだけでは足りません。不足分については、今後の国家予算から返済していただきます。ただし、無理な返済を命じれば、今度は民が苦しみますわ」
「では、どうするというのだ?」
「まず不正に得た資産を国庫へ戻してくださいませ。そのうえで軍需契約を全面的に見直し、宰相府が独自に管理していた秘密資金を国庫へ統合する。さらに、我が国への返済額を毎年の予算へ組み込んでいただきます」
国王陛下は黙って考え込んだ。私はその横顔を見ながら、必要以上に条件を増やすつもりはなかった。隣国を潰せば、返ってくる金まで消えてしまう。大切なのは、相手の国庫を空にすることではない。二度と同じ方法で我が国の資金を奪えない状態へ持っていくことだ。しばらくして、国王陛下が顔を上げた。
「分かった」
「陛下?」
「要求を受け入れる。宰相一族の不正資産を没収し、国庫へ戻す。ヴィクトールが集めた資金についても、返還計画を正式に結ぶ」
「賢明なご判断ですわ」
私は小さく頭を下げる横で、ヴィクトール卿が深く息を吐いた。私は彼へ視線を向ける。彼は疲れた顔で、それでも以前より落ち着いた目をしていた。
「セレスティーナ伯爵」
「何かしら?」
「私は、あなたに感謝すべきなのかもしれない」
「あら。なぜですの?」
「私が何をしたのかを、ここまで明確にしてくれたからです。もしあなたが私の罪をすべて国家の命令のせいにしてくれていたら、私は自分自身から逃げ続けていたでしょう」
「感謝する必要はございませんわ」
「では、何をすればいい?」
「二度と同じことをしないことです」
「……それだけか?」
「ええ。それだけです。罪を認めた人間が、その後どう生きるかまで帳簿には書かれておりませんもの。そこから先は、あなた自身の問題ですわ」
ヴィクトール卿はしばらく私を見つめ、それから静かに頭を下げてきた。
謁見の間では、すでに宰相閣下の拘束が始まっている。国王陛下は自ら兵士へ命令を出し、これまで宰相府が握っていた財務記録をすべて国庫へ移すよう指示している。
私はその光景を眺めながら、ようやく肩の力を抜いた。長かった。違法投資事業の調査から始まり、我が国の貴族を巻き込んだ資金の流れを追い、隣国へ渡ってきた。その先に待っていたのは、一人の詐欺師だけではなかった。国家財政の破綻を隠すため、不正な金を流し、その穴を外国資金で塞ごうとした者たちがいた。だが、もう終わった。少なくとも、この帳簿を閉じる理由はない。
「セレスティーナ伯爵」
「陛下、何でしょう?」
「我が国を救ったのは、君なのかもしれんな」
「いいえ。それは違います。救ったのは帳簿ですわ」
「帳簿?」
「はい。数字は誰の味方もしませんもの。王であろうと、宰相であろうと、外交官であろうと、間違えた数字を書けば、最後には必ず帳尻が合わなくなりますわ」
私は銀の算盤を取り出した。謁見の間に集まった者たちが、一斉にこちらを見る。私は最後に一度だけ珠を弾いた。
パチリ。
「そして、帳尻が合わないのであれば、合わせるまで追いかける。それが財務官の仕事ですもの」
国王陛下は何も言わず、ただ深く頷く。私は踵を返し、王城の出口へ向かって歩き出した。背後から聞こえてくる兵士たちの足音も、文官たちが帳簿を運ぶ音も、もう私を止めるものではない。扉の向こうには、隣国の空と、帰りを待つ我が国への道がある。馬車へ乗り込む直前、私は振り返った。巨大な王城は相変わらず立派だった。だが、その維持に必要な金がどこから出ているのかを知った今では、以前とは違って見える。
「さて、帰国いたしましょうか」
馬車が動き始める。窓の外で隣国の王城が少しずつ遠ざかっていく。私は帳簿を閉じ、背もたれへ身体を預けた。これで隣国との事件は終わった。ヴィクトール卿には自分の罪を償ってもらう。宰相には国家財政を食い物にした責任を取ってもらう。そして我が国へ流れた金は、取り戻す。すべての数字が、あるべき場所へ戻っていく。私は小さく笑い、算盤を一度だけ鳴らした。
パチリ。
「次は、我が国の帳簿を見直す番ですわね」
馬車が王城を離れ、隣国の街並みが遠ざかっていく。私は膝の上の銀の算盤を見つめ、静かに目を細めた。
隣国の不正は、これで終わった。あとは約束された返済と改革が、本当に実行されるかを見届ければいい。だが、今回の一件で私自身も思い知った。我が国にも、まだ見えていない数字がある。私は算盤の珠を一つ弾いた。パチリ、と小さな音が響く。
次に向き合うべき帳簿は、もう決まっていた。
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