第074話 消えた商会主を追うため、私は王都へ早馬を送りますわ
夕暮れのローデン宿場町には、昼間とは違う落ち着いた空気が流れている。宿屋からは夕食の準備をする音が聞こえ、街道では旅を終えようとする馬車がゆっくりと行き交っている。
私はその一角で、先ほど戻ってきた騎士の報告を聞いていた。
三年前に廃業した商会の元主人、マルセル・オルデン。彼が昨夜、何者かに連れ去られたらしい。偽帳簿を持っていた商人から話を聞こうとしていた矢先だけに、私は胸の内で小さく息を吐いた。私の名前が使われた偽帳簿と財務局の印、そして消えた商会主。偶然として片づけるには、重なるものが多すぎる。
「もう一度、詳しく話してくださいませ」
「はっ。先ほど部下が宿場町で聞き込みをしました。その結果、三年前に廃業した商会の元主人が、この町の外れで暮らしていたことが分かりました」
「それが、マルセル・オルデンですのね?」
「はい。ところが昨夜、家から出ていく姿を最後に、行方が分からなくなっています」
「誰かが連れ去ったという証言は?」
「二人の男が家から出てくるところを見た者がおります。ただ、顔までは分からなかったそうです」
私は目の前に広がる街道へ視線を向けた。昨夜ということは、私たちがこの町へ来るより前だ。ならば、私たちが偽帳簿を見つけることとは関係なく、誰かが先にマルセルを動かしていた可能性がある。
私は手帳を開き、帳簿に記されていた商会の名前と日付を確かめた。三年前に廃業した商会が、二年前の日付で取引をしている。しかも、その書類には私の名前が使われている。ここまで重なれば、調べるべきものは決まっていた。
「マルセルに家族は?」
「妻と娘がいたそうです。ただ、二人とも昨年の冬に町を出たと聞いております」
「行き先は分かっていますか?」
「まだ確認できておりません」
「では、その二人の行方も調べてくださいませ。マルセル本人が見つからなくても、ご家族から何か聞けるかもしれませんわ」
「承知しました」
騎士が走り去ると、私は手帳へ視線を戻した。家族が昨年の冬に町を出ているなら、マルセルだけが残っていた理由も気になる。だが、今の時点で余計な推測を重ねても仕方がない。まずは確認できる事実を集めるべきだ。
私は帳簿の日付をもう一度確認しながら、王都へ知らせる必要があると判断した。特に財務局の印については、私だけで抱える問題ではない。
「騎士団長」
「はい」
「手紙を書きますわ」
「王都へですか?」
「ええ。財務局長のゼノス・ヴァン・クライン伯爵へ送ります」
「今回の件を知らせるのですな」
【この方は、報告を聞きながらすでに次に何を調べるべきか決めている。私なら一つの事件に気を取られてしまうところだが、この方は違う。必要な情報を一つずつ拾い上げている】
「ただし、詳しいことは書きません。偽帳簿に私の名前が使われていたこと、財務局の印が押されていたこと。そして、印を使える者が限られていることだけを伝えますわ」
「それだけでよろしいのですか?」
「十分ですわ。ゼノス伯爵なら、その三つを見れば何を調べるべきか判断できますもの」
【余計な推測を加えず、確認できた事実だけを伝えるのか。しかも、ゼノス伯爵がどう動くかまで考えている。報告を受ける側のことまで考えて手紙を書くとは、私には真似できそうにない】
「それから、アーベル・グランツ子爵にも関係する可能性がありますから、その名前も記します」
「アーベル・グランツ子爵ですか」
「ええ。ただし、犯人だと決めつけるつもりはありませんわ。財務局の印を使える者の一人ですもの。名前を隠す理由もありません」
私は筆を取る前に、もう一度考えを整理した。財務局の印を使えるのは、私とゼノス伯爵、それからアーベル子爵の三人だけだ。だからといって、誰かを疑うにはまだ材料が足りない。私がすべきなのは犯人を決めることではなく、事実を正しく王都へ届けることだ。
「騎士団長。早馬を用意できますかしら?」
「今からですか?」
「今すぐですわ」
「分かりました。最も足の速い馬を用意させます」
【迷いがない。今夜のうちに王都へ知らせる意味を、この方は分かっているのだ。私なら朝まで待っても問題ないと考えてしまうかもしれない。だが、この件は一刻でも早く知らせた方がいい】
私は宿屋の一室を借り、机の前へ腰を下ろした。蝋燭の明かりが紙の上へ落ち、筆先がゆっくりと動き始める。
私は偽帳簿に私の名前が使われていたこと、財務局の印が押されていたこと、そして三年前に廃業した商会の元主人が昨夜から行方不明になっていることを書いた。余計な推測は書かない。アーベル子爵についても、印を使える者の一人だという事実だけを記す。私が疑っているなどと書けば、ゼノス伯爵の判断を邪魔してしまうからだ。必要な情報だけを残し、最後に筆を置いた。
「……これでよしっと」
「もう書き終えたのですか?」
振り返ると、いつの間にかカシアンが部屋の入口に立っていた。私は手紙を折り、封筒へ入れながら答えた。
「ええ。長く書いても仕方がありませんもの」
【これほど短い時間で報告を終えたのか。しかも、必要なことはすべて書かれている。私なら念のためと余計なことまで書いてしまうだろう。この方は、本当に必要なものを見分けるのが早い】
「手紙を預かります」
「お願いしますわ」
私は蝋を溶かし、封を閉じた。カシアンへ手紙を渡すと、彼は封印を確かめるように眺めた。
「今夜中に届けさせます」
「ゼノス伯爵本人へ渡してくださいませ。途中で別の者へ預ける必要はありません」
「承知しました」
「それから、返事が届くまでは財務局へ直接問い合わせないでください」
「理由を聞いても?」
「こちらの動きを知られたくないからですわ」
【自分が疑われている状況でも、まず相手にこちらの動きを悟られない方法を考えている。この方は自分一人で解決しようとしているのではない。王都にいるゼノス伯爵へ判断を任せるべきところを、きちんと分かっている】
「分かりました。必ず守ります」
しばらくすると、宿屋の外から馬の蹄の音が聞こえてきた。私は窓辺へ近づき、夜の街道を見下ろした。騎士が封筒を胸元へしまい、馬へまたがる。手綱が引かれると、馬は勢いよく街道を走り始めた。私はその姿が小さくなるまで見送った。これで王都には知らせが届く。あとはゼノス伯爵の判断を待つしかない。私は机へ戻り、残された偽帳簿を開いた。まだ分からないことは多い。誰が私の名前を使ったのか。なぜ財務局の印まで使ったのか。そして、なぜマルセルは消えたのか。私は焦らず、一つずつ調べるつもりだった。
「さて……続きを見ましょうか」
私は帳簿の最初のページへ戻った。数字を追いながら、先ほどの書類を一枚ずつ並べていく。すると、扉が三度、軽く叩かれた。私は筆を置き、顔を上げる。
「セレスティーナ卿、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
扉が開き、カシアンが入ってきた。先ほどとは違い、その顔には少しばかり緊張が浮かんでいる。
「先ほどの騎士から、もう一つ報告が届きました」
「マルセルについてですの?」
「はい」
「何が分かりましたの?」
「マルセルが消える直前、宿場町である人物と話していたそうです」
「その人物は?」
カシアンは答えず、手にしていた紙を私へ差し出した。
「それが……こちらです」
私は紙を受け取った。そこに記された名前を見た瞬間、指が止まる。
「……この名前は、私も知っていますわ」
王都へ送った手紙が届くより先に、私の目の前へ現れた新たな手掛かり。
その名前は、私がこの宿場町で出会うはずのない人物のものだったからである。
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