第073話 私の名を記した偽帳簿は、身に覚えのない罪を私へ押しつけますわ
紙を手にしたまま、私はしばらく黙っていた。夕暮れの宿場町では、宿屋から人の笑い声が聞こえ、街道では荷馬車がゆっくりと石畳を進んでいる。
先ほどまでなら気にも留めなかった音なのに、今は妙に遠く感じられた。私の手元にある紙には、王国財務局の印が押されている。その下には、私の名前がはっきりと書かれていた。さらに日付を確認すると、私が財務局へ入るより前のものだった。
私は紙を裏返してから、もう一度表へ戻した。何度確認しても名前は変わらない。セレスティーナ・マッセ。間違いなく私の名前だ。私は紙をカシアン騎士団長へ差し出した。
「騎士団長。これをご覧くださいませ」
「……あなたの名前ですな」
「ええ。ですが、日付がおかしいですわ」
「確か、財務局へ入る前の日付ですな」
「その通りです。私が書いたものではありません」
カシアンは紙を受け取り、書かれている内容を読み始める。私は横から数字を追うことにした。
砂糖の量、単価、支払った金額、届け先まで細かく書かれている。見た目だけなら、よくできた帳簿に見える。だが、数字を見ればすぐに分かる。数量と単価を掛けた金額と、実際に書かれている金額が合っていない。私は紙の一行を指で示した。
「ここをご覧くださいませ」
「何か問題が?」
「数量と単価を掛けてくださいませ」
「……三千二百四十枚ですな」
「ですが、こちらには四千百枚と書かれていますわ」
「八百六十枚も違うのですか」
「ええ。それだけではありません。こちらの合計も間違っていますわ」
私は次の行へ指を移した。そこにも数字の間違いがある。さらにその下にもあった。見れば見るほど間違いが見つかる。私は小さく息を吐いた。私の名前を使っているのだから、もう少しまともな帳簿を作っていただきたいものだ。
「この帳簿を書いた方は、私のことをよく知らないようですわね」
「なぜ、そのように?」
「私がこんな計算を見逃すと思っているからですわ」
カシアンが口元を少し緩めた。
「ふっ、なるほど」
「笑っている場合ではありませんわ」
「これは失礼しました」
私は紙を受け取り、もう一度内容を確認した。私の名前を使った理由は分からない。
私を犯罪者に仕立てたいのか、それとも別の目的があるのか。
どちらにしても、これを作った人物は、私がこの紙を見ることまで考えていなかったらしい。そう考えると、腹立たしさよりも気になることがある。
それは、帳簿を持っていた商人だ。私は彼へ視線を向けた。男は騎士たちに囲まれたまま、ずっと顔を伏せている。先ほどから一度も私と目を合わせようとしない。
「この紙は、誰から受け取ったのです?」
「……分かりません」
「分からない、ですか?」
「はい」
「では、荷物は誰から受け取ったのです?」
「それも……言えません」
「なぜですの?」
「……」
男は黙った。私はすぐには追及しなかった。ここで怒鳴ったところで、話すとは限らない。むしろ、口を閉ざす理由を考えた方が早い。私は男の手を見ると、指先が小さく震えている。罪を隠している者の震えとは少し違うように思える。自分の罪だけを恐れているのなら、ここまで怯える必要はない。私は声を少し落とした。
「あなたは、誰かを恐れておりますわね?」
「……」
「私には、あなたが自分の罪だけを恐れているようには見えませんわ」
男の肩がわずかに動いた。
【俺が話せば、あの方に知られる。俺だけならまだいい。だが、家族まで巻き込まれたら終わりだ。この女は怖い。何も話さなくても、帳簿を見ただけで俺たちの嘘を見つけてしまう】
私は男の顔を見ながら、やはり背後に誰かいると確信する。だが、今ここで名前を聞き出す必要はない。私の手元には帳簿があり、数字があり、印まである。調べるための材料は十分に揃っている。ならば、本人が話すのを待つより、紙の方から相手を追い詰めればいい。
「分かりましたわ。今は無理に話さなくても結構です」
「……えっ?」
「ただし、あなたを自由にはできません。私の名前を使った書類を持っていた以上、確認が終わるまでは騎士団に預けますわ」
「私は何も知らない!」
「でしたら、調べれば分かります。あなたが本当に何も知らないのであれば、私がそれを証明して差し上げますわ」」
私の言葉に男は何も言わなかった。ただ、俯いたまま拳を握っているだけだ。その様子を見て、私は箱の中へ手を入れてみた。まだ何枚か書類が残っているようだ。
納品書、受取証、金額を書いた紙。私は一枚ずつ取り出して、日付と印を確認していった。すると、どの書類にも同じ商会の印が押されていることに気づく。その商会の名前には覚えがある。
私は記憶をたどり、すぐに答えへたどり着いた。
「妙ですわね」
「何か分かりましたか?」
「この商会は三年前に廃業しています」
カシアンが書類を覗き込む。
「ですが、ここには二年前の日付がありますな」
「ええ。廃業した後に、この商会の名前を使って書類を作っていますわ」
「つまり、誰かが商会の名前を使っていた?」
「その可能性が高いですわ」
私は書類を重ねた。廃業した商会なら、取引相手も減っている。だからこそ、その名前を使ってもすぐには気づかれなかったのだろう。だが、帳簿を調べれば嘘は出てくる。私はカシアンへ顔を向けた。
「騎士団長。この商会の元主人を探してくださいませ」
「すぐに探させましょう」
「それから、商会が廃業した理由も調べてください。財産の行方もですわ」
「承知しました」
カシアンが部下へ命じると、若い騎士が一礼して駆けていった。私はその背中を見送り、手元の書類へ視線を戻した。そこで、一枚だけ紙の端に小さな印があることに気づいた。私は紙を持ち上げた。
「……これは」
「どうしました?」
「財務局の印ですわ」
王国財務局で使われる印だった。私は何度も見ているから分かる。しかも、この印は誰でも使えるものではない。財務局の書類を正式なものとして認めるために使う印であり、普段は決められた場所に保管されている。
「カシアン騎士団長」
「はい」
「この書類を作った人物は、財務局の中を知っていますわ」
「内部の人間が関わっていると?」
「まだ分かりません。ただ、この印を使える人物は限られています」
「では、王都へ戻る必要が?」
「いいえ」
「まずは、この紙がどこから来たのかを調べますわ。ここまで来たのですもの。途中で投げ出すつもりはありません」
私は書類の裏には担当者の名前が書かれている。最初は小さな文字だったので気にも留めなかった。だが、読み取った瞬間、私は手を止めた。
「……嘘でしょう」
「ご存じの名前ですか?」
「ええ」
私は紙から目を離せなくなってしまう。そこに書かれていた名前は、財務局で何度も見てきたものだった。
アーベル・グランツ。
財務局で記録の管理を任されている男の名前だ。
(アーベル殿が関わっている? いや、そんなはずはない。あの方は財務局の中でも真面目な人。だが、この印を使える場所にいるのも事実だ。もし本当に関係しているなら、私は今まで何を見落としていた?)
私は紙をゆっくりと折り、外套の内側へしまう。
アーベルは王都にいる。
今回の旅にも同行していない。
それなのに、なぜ隣国へ運ばれるはずだった書類に、彼の名前があるのか。
「……これは、帰国してから調べる必要がありますわね」
私は馬車へ向かって歩き出した。だが、三歩ほど進んだところで、背後から騎士の慌てた声が聞こえた。
「セレスティーナ卿! お待ちください!」
振り返ると、先ほど元主人を探しに向かったはずの騎士が、息を切らして戻ってくる。
「見つけたのですか?」
「はい。元主人の居場所が分かりました」
「それは結構ですわ。では、すぐに向かいましょう」
「それが……元主人は昨夜、何者かに連れ去られたそうです」
アーベルの名前が書かれた偽帳簿。
そして、証言できるはずだった商会の元主人。
その二つが、同じ夜に動いている。偶然とは、とても思えない。
「騎士団長」
「はい」
「予定を変更いたしますわ」
「どちらへ?」
私は街道の先を指さす。
「隣国へ向かう前に、その元主人を連れ去った者を探します」
そして私は、もう一度手の中の紙を握りしめた。
どうやら今回の旅は、私が帳簿を調べるだけでは終わらないようだ。
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