第067話 凱旋の咆哮はペン先に宿り、狂乱の演算は滞留せし書類を灰塵へと帰しますわ
財務局。そこは、市井の徒にとっては過酷な収税の牙城であり、凡庸な官吏にとっては終わりなき事務作業に忙殺される精神の牢獄かもしれない。
だが、三日間に及ぶ『数字の禁欲生活』という名の煉獄を潜り抜けた今の私にとって、この煤けた石造りの建物こそが、唯一無二の救済、魂の安息所たる至高の聖域に他ならなかった。
馬車の扉が開いた瞬間、私を包み込んだのは街の喧騒ではない。古びた羊皮紙と煤けたインク、そして数多の官吏たちの脂汗が混じり合う、世界で最も甘美な「情報の香り」だ。
(ああ、肺胞のひとつひとつが歓喜に震えている。この、酸素よりも生命維持に不可欠な情報の芳香。これこそが、私が呼吸すべき空気。私が生きるべき、真理の世界だわ)
私はエルメリンダの制止を振り切り、重厚な扉を勢いよく跳ね除けて執務室へと足を踏み入れた。
視線の先には、主の不在を嘆くかのように、机の上で均衡を失い、崩れ落ちる寸前まで高く積み上がった未処理書類の山が広がっている。
地方領主からの厚顔無恥な収支報告書、軍部からの無謀極まる予算追加申請、そして煩雑を極める徴税記録の束。
常人であれば、その圧倒的な質量に絶望し、膝を折るであろう絶景。
しかし、今の私にはそれが、私を温かく迎えてくれる色とりどりの祝福の花束に見えていた。
私は脱ぎ捨てるように外套を椅子の背に投げ出すと、狂おしいほどの情熱を込めて、愛用の羽根ペンを手に取る。
指先に触れるその軸の感触。休暇中、どれほどこの細い軸を求めて指先が震え、空を掻いたことか。
インク瓶の蓋を開ける微かな音さえ、私には凱旋を祝う祝砲のように聞こえた。
カチリ、と脳内の演算回路が、休暇前の数倍の負荷を伴って強制起動する。
三日間、強制的に冷却され、力を蓄えていた神経系に、高電圧の魔力が駆け巡り、瞳の奥には青白い計算の火花が宿る。
もはや言葉など不要だ。
私は、嵐のように、あるいは神に捧げる狂乱の舞踏のように、ペンを走らせ始めた。
「一項目目、領地開発費の不自然な計上漏れ。二項目目、端数の切り捨てによる意図的な累積誤差。三項目目、予備費の流用先不明。ふふ、ふふふ。こんな、小学生でも間違えないような稚拙な計算ミスで、私の目を欺けるとでも思ったのかしら。却下、修正、再提出、そして査察対象にリストアップよ」
ザッ、ザッ、と激しく紙を捲る音だけが、静まり返った執務室に鳴り響く。
通常ならば熟練の官吏が三日は要する複雑な特別会計の照合が、私の脳内ではわずか数秒で完結し、事実としての数値へと収束していく。
数字。数字。数字。
無限に供給されるデータの奔流を、私は一つ残らず完璧に、そして美しく調律していく。
それはもはや事務作業などという低俗な呼び名には相応しくない、数学という名の絶対神に捧げる、狂信的なる供犠だった。
いつの間にか、開け放たれた扉の向こうには、私の部下たちが集まっていたが、誰一人としてこの部屋に入ることはできない。
私の周囲に物理的な圧として渦巻く、文字通りの計算の嵐。
一秒間に数枚のペースで「処理済み」の箱へ叩き込まれる書類の山を、彼らはただ、戦慄と畏怖の面持ちで見つめるばかりだ。
「セレスティーナ様、お戻りになられたのは喜ばしいが。あれは、もはや人ではない」
「休暇で溜まりに溜まった計算欲が、臨界点を超えて爆発しているんだ。今日中に、一ヶ月分の仕事が終わってしまうぞ」
そんな部下たちの囁きすら、今の私の耳には届かない。
私の世界は今、羊皮紙の上に躍る黒い数字の群れと、それを瞬時に裁く脳内の算盤だけで構成されているのだから。
その時。
騒がしい扉の外から、私の監視役――いいえ、親友であるエルメリンダが、呆れた様子で足を踏み入れてきた。
彼女は、まるで獲物を貪る飢えた狼のような私の背中を、悲哀と、そしてどこか誇らしげな色が混じり合った複雑な眼差しで見つめていた。
【……本当に、この計算馬鹿。わたくしとの別れを惜しむ暇もなく、紙の束に愛を囁くなんて。わたくしをあれほど手こずらせた休暇の苦労は、この数分間の演算であっさりと相殺されてしまったというのかしら。まあ、あれほどまでに生き生きとペンを振るう背中を見せられては、わたくしの出る幕など、もはや一分も残されてはおりませんわね。全く、可愛げのない親友ですこと】
彼女の本音から溢れ出る、微かな寂しさと、深い諦観。
だが、今の私にはそれを受け止めるための予備の演算資源が、一ビットも残されてはいない。
エルメリンダは、カツカツと優雅な足音を立てて私の机の傍らまで歩み寄ると、私の指からペンをもぎ取ろうとするのではなく、代わりに冷めた紅茶の入ったカップを、計算の邪魔にならない絶妙な位置に置いた。
「セレスティーナ、少しは落ち着きなさいな。書類は逃げやしないわ。それとも、わたくしの目の前で、人間であることを辞めて数字と心中でもするつもりかしら?」
「ええ、望むところよエルメリンダ! 見て、この南部領主の姑息な隠し財産を。彼が闇に葬ったはずの三万デナリの行先を、今、この瞬間に白日の下に晒して差し上げるわ。ああ、快感。計算が合うことが、これほどまでに脳を痺れさせるとは。やはり私はこのために生まれてきたのよ!」
「ダメだわ、この女。完全に『あちら側』へ行ってしまっているわね。これなら、屋敷で大人しく素数を数えていた時の方が、まだ可愛げがあったというものですわ」
エルメリンダは大きく溜息をつき、諦めたように私の隣の椅子に腰を下ろした。
彼女の存在は、私の狂気的な演算を停止させるブレーキではなく、むしろ過熱した頭脳を冷やすための冷却水のように機能し、私の計算速度を一段と加速させていく。
部下たちが『魔神が帰ってきた』と震えながら扉の隙間からこちらを覗き見ていることなど、今の私には塵芥ほどの影響も与えない。
ペンを走らせる音が、執務室に心地よいリズムを刻み続ける。
一ヶ月分の滞留書類が、見る間に”処理済み”の山へと移されていくその様は、まさに混沌からの秩序の再構築。
私は、親友の存在という名の不確定な安らぎを背中に感じながら、愛しき数字の海へと、さらに深く、深く潜り込んでいく。
(待っていなさい、王国の全財政記録。貴方たちの不規則な脈動を、今、私が完璧な数式で調律して差し上げるわ!)
書類の山が半分に減った頃、私はようやく一口だけ紅茶を啜った。
冷え切った液体が喉を通る感覚さえ、今の私には新たな変数の入力のように感じられ、脳の回転を一段と速めていく。
(ああ、生きているわ。私、今この瞬間、猛烈に生を実感している!)
ペン先が紙を削る感触、インクが紙に吸い込まれる速度、そして何より、矛盾が解消され、完璧な調和へと収束していく数字たちの輝き。
これこそが、私という人間を構成する唯一無二の真実。
エルメリンダの呆れ顔すらも、今は最高に美しい背景の一部として、私の演算世界を彩っていた。
こうして、私の休暇という名の『最悪な平和』は終わりを告げ、数字という名の『最高の戦場』へと、私は華麗なる凱旋を果たしたのである。
日が傾き、執務室に夕闇が忍び寄る頃になっても、私のペンの速度が衰えることはなかった。むしろ、処理すべき情報が減るにつれ、一項目に割ける演算資源が増大し、その精度は極限まで研ぎ澄まされていく。
部下の一人が、震える手で新たな書類を運んできた。その額からは滝のような汗が流れ、呼吸は浅い。
「せ、セレスティーナ様……。本日の、報告書の……」
「三秒。そこに置いて、すぐに次の束を運んできなさい。遅れは許しませんわよ」
私は顔すら上げずに、飛来する書類を空中で捕らえるかのような勢いで処理を続ける。
エルメリンダが、そっと私の肩に手を置いた。その手の重みだけが、私をこの物理世界に繋ぎ止める唯一の錨だった。
「セレスティーナ。今日はもう十分よ。貴女の部下たちが、酸欠で倒れる前に引き上げなさいな」
(……あと、四十二枚。それを終えれば、本日の国家予算執行状況の誤差は、ゼロに収束しますわ)
「あと少し……あと少しだけ、私にこの至福を味合わせてくださいまし」
私は、親友の制止さえも心地よいリズムの一部として取り込み、最後の一片まで数字を貪り尽くすべく、更なる加速を開始したのである。
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