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搾取令嬢は二度と騙されない ~嘘を見抜く左目で、すべてを取り戻します~  作者: 第三ひよこ丸


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第066話 庭園の散策は素数の呪縛に侵食され、羞恥に染まる親友の腕に引かれるは奇行の果てですわ

 黄金色の陽光が惜しみなく降り注ぐ、休暇最終日の昼下がり。

 私はエルメリンダの強い勧めに従い、彼女の屋敷に広がる広大な庭園の散策へと連れ出されていた。

 色とりどりの薔薇が狂い咲き、手入れの行き届いた芝生がエメラルドの絨毯のように広がるその光景は、世の令嬢たちにとっては至高の癒やしであり、華やかな社交の舞台なのであろう。

 

 だが、筆記具を奪われ、計算という名の酸素を遮断されて三日目の私にとって、この静謐な自然はあまりにも情報密度が低すぎた。

 私の脳細胞は、無機質な数字の羅列を求め、飢えた獣のように周囲のあらゆる事象を演算の対象として彷徨い続けている。


(ああ、退屈ですわ。花弁の数を数えるのにも飽きましたし、噴水の水滴が描く放物線の曲率計算も、もはや暗算で小数点以下三桁まで弾き出してしまいました。このままでは、私の脳が計算不足による機能不全(フリーズ)を起こしてしまいますわ)


 隣を歩くエルメリンダは、ようやく私が大人しく風を愛でるようになったと誤解したのか、満足げな、慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。

 

 だが、彼女は知らなかったのだ。

 

 私の脳内演算回路が、外部からの有益な数値刺激を失った結果、自らの肉体を制御する「移動命令」にまで数字の論理を組み込み始めたことを。

 私は無意識のうちに、自らに一つの鉄の掟を課していた。

 それは、歩幅を厳密に一定に保ちつつ、立ち止まるまでの歩数を必ず「素数」に限定するという、数学的偏執の極致とも言える自分律である。


 一歩、二歩、三歩。

 そこで一度、私は不自然に足を止める。三は最も根源的で美しい素数だ。

 次に目指すは五。

 四歩目で止まりそうになる足を、強靭な精神力で強引に制御し、五歩目でぴたりと彫像のように静止する。

 

 七、十一、十三、十七……。

 

 素数の出現間隔が広がるにつれ、私の歩みは優雅な散歩から、奇妙な変則ステップ、あるいは何らかの儀式的な舞踏へと変貌を遂げていった。

 時には獲物を狙う猟犬のように急ぎ足になり、時には何もない空虚な場所で、物理法則を無視したかのように不自然に硬直する。

 端から見れば、それはもはや優雅な令嬢の散策などではなく、新手の呪術的儀式か、あるいは見えない敵と死闘を繰り広げている狂人の独り相撲に他ならなかった。


「……セレスティーナ?  さっきから貴女、何をしているのかしら。その、膝の角度と言い、止まり方と言い、少し……いえ、かなり不気味よ」


 隣を歩くエルメリンダの声が、困惑を隠しきれずに微かに震えている。

 だが、今の私には親友の懸念を聞き入れる余裕などなかった。十九歩目の聖域へと辿り着くために、脳内の演算資源をすべて投下していたからだ。

 

 次の素数は二十三。その次は二十九。

 

 歩数が増えるほど、途中で蝶が横切ったり、石に躓いたりして、不慮の事態に足を止めざるを得なくなった時の「素数崩壊」への恐怖が、私の背中を鋭く突き動かす。


 

「今は話しかけないでください、エルメリンダ。私は今、宇宙の秩序と自らの歩調を完全に同期させているのです。……十九、二十、二十一、二十二……。二十三! はい、今ですわ!」


 私が庭園の中央、噴水の前で、片足を上げたまま奇妙なポーズで静止したその瞬間。

 周囲を散策していた他の貴族たちから、短い悲鳴や、扇子で口を覆う際の衣擦れの音が漏れた。

 若き財務官が、連日の激務と休暇のストレスでついに発狂し、庭園で奇妙な呪いの踊りを披露し始めた。

 そんな根も葉もない、しかし目の前の光景からは否定しがたい噂が、憐れみと戦慄の視線となって私たちを包囲していく。


「セレスティーナ! 今すぐその恥ずかしい姿勢を解きなさい! 貴女、自分が今どのような目で見られているか分かっていますの!?」


「これは素数ですわ、エルメリンダ! 一と自分自身でしか割り切れない、孤高にして気高き数字の意志を、私は今、自らの肉体をもって現世に体現しているのです!  次は二十九歩まで、例え天地が裂けようとも止まることは許されませんわ!」


 私は決然と言い放ち、再び異様な速さと正確さでステップを刻み始めた。

 エルメリンダの顔が、怒りと羞恥、そして『なぜ私の親友は、数字が絡むとこれほどまでに残念なのか』という深い絶望によって、大輪の薔薇よりも鮮やかに赤く染まっていく。


【もう、この計算馬鹿! どうしてただ庭を歩くだけのことが、これほどまでに奇怪な儀式になってしまうのかしら。周りの視線が痛すぎて、わたくしまで頭がおかしくなりそうですわ。最新の精神修行法だなんて嘘を吐くのも限界がありますわよ。けれど……ああ、あんなに真剣な、まるで真理を追う預言者のような顔で素数と向き合っている姿を見せられたら、わたくしが泥を被ってでも連れ戻してやるしかないではありませんか】


 彼女は周囲の貴族たちに向けて、顔を扇子で半分隠しながら、震える声で精一杯の「社交辞令」を告げた。


「お、お騒がせしております。これは……その、財務局で密かに流行している、精神を統一するための最新の修行法ですの。ええ、極限まで脳を活性化させ、一秒間に万の計算をこなすための、高度な……高度な秘儀なのですわ!」


 そんな見え透いた嘘が通用するはずもないが、エルメリンダの放つ圧倒的な公爵令嬢としての威圧感に気圧され、周囲の者たちは「さ、流石は財務官殿、凡人には理解できぬ高みで思考していらっしゃる」と引きつった笑いを浮かべて道を空けた。

 だが、エルメリンダの忍耐もそこまでであった。

 彼女は私の腕を、万力のような力強さで掴み上げると、私の歩数計算を物理的・強制的に遮断した。


「そこまでよ、この計算中毒者。貴女の素数散歩は、今この瞬間に、わたくしの権限をもって終了とさせていただきますわ」


「待ってください、あと六歩で二十九に到達するのです! 私の構築した秩序が、中途半端な合成数で汚されてしまいますわ!」


「黙りなさい。これ以上、わたくしの屋敷の庭園に、貴女の奇行による変な噂を流されては堪りません。大人しく、首根っこを掴まれないうちに引きずられて帰りなさいな」


 こうして、私は再び親友に腕を引かれ、不完全な歩数のまま屋敷へと強制連行されることとなった。

 背後で、ようやく災厄が去ったと胸を撫で下ろす貴族たちの安堵の溜息が聞こえる。

 引きずられながら、私は地面に刻まれた自らの足跡を見つめ、未完の数式に深い悲しみを覚えた。


(ああ、私の二十九歩目が……。ですが、エルメリンダ。貴女が私を掴むこの指先の握力もまた、一定の周期で増減していることに気づきました。これはもしや、対数螺旋の曲率を指の加圧力に変換した際の……)


「まだ何か計算しようとしているわね、セレスティーナ。今度余計な数字を口にしたら、今日の夕食のメニューから、貴女が楽しみにしている『カロリー表記』と『タンパク質含有量』の情報を、すべて黒塗りにして差し上げますわよ」


 その一言で、私の脳内演算は急速に凍結フリーズした。

 食事における数値情報すら奪われたら、私は摂取栄養素の最適化をどのように行えば良いのか。

 それは財務官としての死を意味する。

 私は静かに唇を噛み、親友の慈悲深き(そして物理的に強固な)護送に、甘んじて身を委ねるしかなかった。


 屋敷の玄関を潜る頃、西の空には燃えるような夕焼けが広がっていた。

 明日になれば、私はついに、あの愛しき数字と書類が積み上がる戦場へと帰ることができる。

 この三日間の、数字を奪われ、計算を禁じられた狂気の日々。

 私はそれをどのような数式で総括すべきだろうか。

 おそらくそれは、エルメリンダという名の、私の演算能力を以てしても決して解き明かせない不確定要素を含んだ、極めて難解な非線形連立方程式になるに違いない。


(明日、財務局の門を叩く時。私はまず、出迎える警備兵の制服のボタンの数から、誤差一パーセント以内で数え直すことにいたしますわ。休暇、万歳。ですが、二度と御免ですわ!)


 私は、自分を引きずる親友の温かな手の感覚を、密かに「一」という、代わりのきかない絶対的な数字として心に刻み込んだ。

 その温かさだけは、どのような複雑な数式よりも、今の私を強く支えてくれているのであった。

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