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搾取令嬢は二度と騙されない ~嘘を見抜く左目で、すべてを取り戻します~  作者: 第三ひよこ丸


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第063話 休暇の夜に狂い咲くは数字への渇愛、親友の掌で転がされるは愚かな財務官の末路ですわ

 月光が青白く王都を照らし、夜の帳が万物を深く包み込む頃。

 本来であれば、柔らかな絹の寝具に身を委ね、心身を癒やすべき休暇の二日目。

 しかし、私の意識は微睡みの対岸で、激しく荒れ狂う嵐の渦中にあった。

 窓から差し込む銀色の光が、机の上に置かれた白紙の束を照らし出すたび、指先が不自然なほどに震え、脳の奥底が熱を帯びていく。

 目蓋の裏に焼き付いて離れないのは、未処理のまま残してきたであろう、地方領主たちから提出された収支報告書の山。

 あの一行目の端数、二行目の繰り越し金の不自然な乖離、それらを一つ一つ、算盤の珠で弾き潰していく快楽が、今や私の魂を侵食していた。


 ペンを握らぬ指先は、もはや自分の意思を離れ、空中で架空の数式をなぞり続けている。

 羊皮紙のざらついた感触、インクの鼻を突く独特な香り、そして計算が合致した瞬間に訪れる、宇宙の真理に触れたかのような至福の達成感。

 それら全てを奪われた休暇という名の監獄は、私にとって毒以外の何物でもなかった。

 呼吸を整えようとすればするほど、肺の奥が数字の羅列を求めて喘ぐ。

 これはもはや、一種の禁断症状と呼ぶべき事態であった。


 

 私は音もなく寝所を抜け出すと、動きやすい闇色の衣に身を包んだ。

 財務局という名の聖域へ、不法に侵入を試みるなど、正気の沙汰ではない。

 見つかれば地位も名誉も失い、それこそ明日の朝刊の一面を『数字に狂った財務官の乱心』という見出しで飾ることになるだろう。

 だが、今の私にはそんな理屈など、端数程度の価値もなかった。

 私の魂が、あの重厚な扉の向こう側に眠る膨大な情報群を呼んでいる。

 一秒、また一秒と時を刻むごとに、計算を行わないことによる脳の壊死が進んでいくような錯覚さえ覚えた。


 深夜の王都は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。

 私は壁の陰に身を潜め、衛兵の巡回周期を脳内で精緻に算出していった。

 四名の衛兵が、それぞれ百二十歩の間隔で歩調を合わせ、角を曲がるまでの時間は四十五秒。

 一点五秒の誤差もなく導き出された死角を縫い、私は財務局の裏手へと辿り着く。

 正門を突破するのは愚策。

 狙うは、私の執務室へと通じる、三階の換気用の小窓のみ。

 あそこならば、閂の緩みを私は事前に把握している。


 私は壁に突き出た石造りの装飾に足をかけ、令嬢とは思えぬ身のこなしで上方を目指した。

 指先に伝わる石材の冷たさが、逆に高揚した脳を心地よく冷やしてくれる。

 スカートを膝まで捲り上げ、石の僅かな凹凸に爪先をかける姿は、およそ王国の財政を担う者とは思えぬほど野性的であったろう。

 あと少し。

 その窓の向こうには、私が愛してやまない未整理の書類たちが、整然と主の帰りを待っているはずだ。


 

 私は勝利を確信し、窓の縁に手をかけた。


「……随分と夜風が気持ちよさそうな場所を選んだのね、セレスティーナ」


 不意に、窓の内側から、聞き慣れた、そして今この瞬間、世界で最も聞きたくなかった凛とした声が響いた。

 窓が内側から勢いよく開かれ、燭台の明かりが私の顔を容赦なく照らし出す。

 そこに立っていたのは、夜着の上に薄い羽織を引っ掛けただけの、しかしその瞳に確かな勝利の光を宿したエルメリンダであった。

 彼女は窓辺に腰掛け、不敵な笑みを浮かべて私を見下ろしている。


【全く、この計算馬鹿は。予想通りすぎて欠伸が出ますわ。休暇の過ごし方も知らない貴女を、こうして見張っておくわたくしの身にもなってほしいものですわね。まあ、そんな危ういところも貴女らしいといえば、貴女らしいのですけれど。それにしても、令嬢が壁を登るなんて、後でお説教が必要ですわね】


 エルメリンダは、呆れたように、しかし獲物を追い詰めた猟師のような微笑を浮かべていた。

 私は窓枠にぶら下がったまま、言い訳を探して脳内の演算を試みたが、導き出される答えは全て『詰み』の一言に集約された。

 そもそも、なぜ彼女がここにいるのかという確率計算を放棄していたこと自体、私の思考が数字の渇望によって濁っていた証拠に他ならない。


「え、エルメリンダ……。貴女、なぜこのような場所に。王宮の夜会にでも出席していたのではないのですか」


「なぜ、ですって? 貴女という計算馬鹿が、休暇の退屈に耐えきれずにここへ這いずり回ってくることくらい、計算するまでもないことよ。……全く、私の予測を裏切らないわね、貴女は。夜会なんて、この喜劇を見るために早々に切り上げてきたわ」


「これは、その、夜の空気があまりに心地よかったゆえ、散策をしていたところ、つい高みに登りたくなりまして。重力と筋肉の関係性を実証実験していたと言い換えても良いのですが」


「散策で建物の三階まで垂直に登る貴族の令嬢がどこにいるのかしら?ほら、さっさと降りてきなさい。それとも、私が衛兵を呼んで、高名な財務官殿の『散策』を街中に触れ回って差し上げましょうか?翌朝の社交界は、この話題でもちきりになるでしょうね」


「そ、それだけはご容赦を。わたくしの社会的信用残高が零になってしまいます」


 私は、這々の体で地面へと降り立った。

 着地と同時に、影に紛れて逃走を図ろうとしたが、エルメリンダの動きはその数段上を行っていた。

 彼女は窓から軽やかに飛び降りると、私の背後に音もなく回り込み、まるで悪さをした子猫を扱うかのように、私の首根っこを的確に、そして力強く掴み上げた。


【ふふ、捕まえましたわ。もう逃がしませんわよ。貴女のその往生際の悪さ、見ている分には愉快ですけれど、今日はわたくしが根気比べに勝たせていただきますわ。観念してわたくしの腕の中で大人しくしていなさいな。少しは自分の体を労わることを覚えなければ、わたくしが困るのですから】


 

 ああ、なんという屈辱。

 財務局を揺るがす数多の難問を解き明かしてきたこの私が、親友の掌の上で無様に吊るされるなど。

 首根っこを掴まれる指先の力加減が、あまりにも完璧すぎて、抵抗するための筋力が、一パーセントも働かない。

 彼女の指から伝わる体温が、私の背筋を伝い、異常な興奮に沸き立っていた脳を強制的に沈静化させていく。


「……観念しなさい。貴女の休暇は、あと一日残っているのよ。このまま自宅まで引きずってでも連れ戻してあげるわ。いい、明日が終わるまで、数字の『す』の字も口にすることは許さないから」


「待って、待ってくださいエルメリンダ。せめて、あそこに置かれた一束の書類だけでも。あれは、収支の合わない不届きな地方官吏を糾弾するための重要な武器なのです!それさえあれば、私は健やかな眠りにつけるのです」


「却下よ。貴女に必要なのは数字ではなく、温かい寝床と、私の監視付きの休息よ。……さあ、行くわよ。これ以上見苦しい真似をするなら、お父様に今の格好を見せに行くわよ」


 こうして、王国の財政を掌握する気鋭の財務官は、深夜の街路で親友に首根っこを掴まれたまま、ずるずると引きずられていくという、歴史に残る惨敗を喫した。

 抵抗を試みる私の足は、石畳の上を虚しく空回りし、夜の静寂の中に情けない靴音が響き渡る。

 時折すれ違う野良猫たちが、憐れみの視線を向けてくるような気がして、私は外套の襟に顔を埋めた。


「エルメリンダ……。せめて、四則演算の一問だけでも。暗算でいいのです。三桁同士の掛け算一回で、私は満足して眠りにつけますから」


「黙りなさい! 次に口を開いたら、明日の一日、貴女の周りから筆記具を全て没収するわよ。羽ペンも、インクも、石炭も、砂場すら見せないように手配するわ」


 その宣告は、私にとって極刑にも等しい重みを持っていた。

 筆記具のない生活など、翼をもがれた鳥も同然。

 私はついに項垂れ、親友の慈悲深い、しかし苛烈な護送に身を任せるしかなかった。

 遠ざかっていく財務局の窓を見上げながら、私は心の中で、愛しき数字たちに再会の誓いを立てる。


(待っていてください、私の書類たち。明後日の朝、私は必ずや貴方たちを美しく整えて差し上げますわ。この屈辱をバネに、計算精度を一パーセント向上させてみせます)


 そんな私の滑稽な決意を見透かしたかのように、エルメリンダは小さく鼻を鳴らした。

 彼女に引かれて歩く家路は、月の光に優しく照らされ、不思議と私の荒んだ心に、数字とは別の安らぎを運んできた。

 首を掴む彼女の手が、実は乱暴なようでいて、私の肌を傷つけぬよう細心の注意を払っていることに気づき、私は微かに目を細める。


 屋敷へと辿り着き、自室の寝台へ放り込まれた私は、エルメリンダが扉の鍵を閉める音を聞きながら、深い溜息をついた。

 彼女は扉越しに、勝ち誇ったような、それでいてどこか安心したような声をかけてくる。


【よしよし、これでようやく眠りにつけますわね。全く、貴女を一人にしておくと心臓がいくつあっても足りませんわ。明日は朝から付きっきりで、数字の欠片もない甘味でも食べに行きましょう。それが貴女への罰であり、わたくしからの……。ええ、秘密ですわ。貴女が数字に飽きるまで、わたくしがずっと捕まえておいて差し上げますわ】


 私は静かに目を閉じ、明日の朝には届くであろう、エルメリンダ特製の毒舌と温かい茶を想像した。

 結局のところ、数字よりも確かな存在が隣にいることこそが、私にとって最大の幸運なのかもしれない。

 皮肉なことに、彼女の存在という名の不確定要素だけは、私の完璧な演算をもってしても、決して解き明かすことのできない最難関の数式であった。

 心地よい疲労感がようやく私を包み込み、私は吸い込まれるように、数字の出てこない深い眠りへと落ちていった。


 翌朝、窓から差し込む光で目を覚ました私の目の前には、仁王立ちで朝食を差し出すエルメリンダの姿があった。

 彼女の手に握られた算盤が、朝日を浴びて鈍く輝いているのを見た瞬間、私の休暇最終日は、再び敗北の色に染まることを悟ったのである。

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