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搾取令嬢は二度と騙されない ~嘘を見抜く左目で、すべてを取り戻します~  作者: 第三ひよこ丸


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第064話 親友の秘め事に触れる指先は震え、暴かれた家計の矛盾は破滅への序曲となりますわ

 月光が重厚なカーテンの隙間からこぼれ落ち、豪華絢爛なエルメリンダの私室を青白く、それでいて怪しく照らし出していた。

 休暇二日目の夜。私は今、親友の屋敷の客間ではなく、彼女自身の寝所に招かれていた。

 本来であれば、気心の知れた乙女同士、温かな飲み物を片手に恋物語や流行の装飾品について語り合うべき時間なのだろう。

 しかし、私の脳内を占拠しているのは、そんな春風のような情緒ではなく、極寒の地で飢えた獣が獲物を求めるが如き、強烈な数字への渇望であった。

 財務局という名の戦場から切り離され、筆記具すら取り上げられた私の指先は、所在なげに空を掻き、目に見えぬ算盤の珠を執拗に弾き続けている。

 暗闇の中で動く私の指は、傍から見れば何らかの呪詛を編んでいる魔女のように見えたに違いない。


 ああ、脳が、脳の奥が熱い。

 計算という名の潤滑油が決定的に不足し、思考の歯車が不快な軋みを上げている。

 昨日から今日にかけて、私の脳が処理した有効な数値は、朝食のパンの焼き色の分布率と、エルメリンダが庭園で摘んだ花弁の総数程度。

 そんな端数にも満たない情報量では、私の演算中枢は到底満足などしてくれない。

 禁断症状はすでに限界に達し、視界の端には、壁紙の模様さえも複雑な幾何学模様の数列に見え始めていた。


 その時であった。

 主であるエルメリンダが、湯浴みのために席を外した。

 扉の向こうから微かに聞こえる、規則正しい水音。

 それは私にとって、聖域を守護する峻烈な門番が消えた、千載一遇の好機に他ならなかった。

 私は、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、ふらふらと彼女の執務机へと歩み寄る。

 磨き上げられた黒檀の机の上、その片隅に置かれていたのは、一冊の、使い込まれた革表紙の冊子であった。

 表題はない。だが、その形状、絶妙な厚み、そして僅かに覗く頁の端に記された、寸分の狂いもない等間隔の罫線。

 間違いなかった。それは、誇り高き公爵令嬢エルメリンダが、人知れず個人的に付けている、秘蔵の家計簿である。


(見るだけ。ほんの数頁、数字の整合性を確認するだけならば、それは休暇の範疇を逸脱した不法行為には当たらないのではないかしら)


 理性が、崖っぷちで私の襟首を掴んで引き戻そうとする。

 他人の家計、それも一国の経済を左右する公爵家の私的な出納を覗き見るなど、貴族の礼節に悖るどころか、信頼を根底から覆す背信行為。

 ましてや相手は、私の唯一無二の親友である。

 だが、今の私にとって、整然と並ぶ数字の羅列は、枯れ果てた砂漠で見つけた唯一の清冽なオアシスであった。

 一度は踏みとどまったものの、禁断症状に激しく震える私の右手が、脳の制止を裏切って吸い付くように冊子へと伸びる。

 指先が革の感触を捉えた瞬間、全身に電撃のような高揚感が走り抜けた。


 表紙を捲った瞬間、私の視界には、目も眩むような黄金の「楽園」が広がっていた。

 羽ペンで丁寧に、そして力強く記された日付、項目、そして金額。

 食費、被服費、交際費、使用人の賃金体系。さらには慈善団体への寄付金の項目まで。

 私の瞳は、瞬時に紙面上の全ての数値を走査し、脳内の巨大な演算回路へと濁流のように流し込んでいく。

 一頁、二頁と捲るたびに、滞っていた思考の歯車が猛烈な勢いで回転し始める。

 食費の月次変動率から、彼女の基礎代謝と体調の推移を予測する。

 被服費の支出傾向から、次の季節に彼女が好むであろう色彩と流行の統計を取る。

 それは、親友の知られざる内面を、客観的な事実という名の鋭利なメスで解剖していくような、背徳的かつ至高の快楽であった。


 だが、その完璧な調和の中に、私は一つの「致命的な違和感」を見つけてしまった。

 毎月十五日に計上されている、巨額の使途不明金。

 摘要欄には何も記されておらず、ただ無機質な数字だけが、そこにあるべき秩序を嘲笑うかのように不気味に居座っている。

 この不自然な乖離。これを埋めずして、どうして財務官を名乗れようか。

 私の正義感が、数値の乱れを修正せよと激しく咆哮を上げた。


(この項目の変動係数はあまりに異常だわ。前月比マイナス四パーセントの推移を見せながら、繰り越し金との合計が七十二デナリも合わない。誰が、誰がこのような不細工な計算を、公爵家の帳簿に許したのかしら!)


 私は、もはや我慢できずに机の上のペンへと手を伸ばした。

 この乱れた数式を正し、空白の欄に完璧な合計金額を、そして将来に向けた資産運用の最適解を、彼女のために書き込みたい。

 インクを吸ったペン先が紙面に触れようとした、その刹那。

 背後の空気が、一瞬にして絶対零度まで凍り付いた。


「……セレスティーナ、貴女、そこで一体何をしているのかしら?」


 水音の止まった静寂の中に、鈴の音のように清らかで、しかし凍土に突き刺さる氷刃のように鋭い声が響く。

 私は心臓が口から飛び出すほどの衝撃を感じながら、首を錆び付いた古い歯車のようにギチギチと回した。

 そこには、湯上がりの火照りなど微塵も感じさせないほど、冷ややかな、それこそ地獄の底を覗き込むような眼差しを向けたエルメリンダが立っていた。

 滴る水滴が床に落ちる音さえ、死の宣告を刻む秒針のように聞こえる。


【ふふ、やはり。獲物を見つけた野良猫のような目をして、わたくしの懐事情を覗き見るとは良い度胸ですわね。セレスティーナ、その指が何をしようとしたのか、数字で説明してもらいましょうか。貴女がわたくしの秘密にどこまで踏み込んだのか、一分一厘の狂いもなく吐き出させて差し上げますわ。逃げられるとは思わないことですわね】


 彼女の本音から溢れ出る、もはや計算不可能なほどの苛烈な殺気に、私の背筋を戦慄が駆け抜ける。

 私は家計簿を胸に抱えたまま、言い訳を構築しようと脳内計算を試みたが、導き出された生存確率は、限りなく零に近いマイナスであった。

 冷や汗が頬を伝い、手に持ったペンが重く感じられる。


「エ、エルメリンダ。これは、その、決して他意があったわけではなく。ただ、あまりにも美しい数字たちが、寂しそうに私を呼んでいたものでして。数値の不一致という名の悲鳴を、無視することができなかったのです」


「呼んでいた? 貴女、ついに紙の束と会話ができるようになったのかしら。……セレスティーナ。人の家の帳簿に勝手に赤入れをしようとするのは、強盗よりも質が悪いという自覚を持ちなさいな。それは家計の管理ではなく、魂の侵略よ」


 彼女は一歩、また一歩と、獲物を追い詰める豹のような優雅さで近づいてくる。

 私は、逃げ場のない椅子の背にもたれかかり、震える手で家計簿を差し出した。

 白旗を上げる代わりに、数字の証拠を差し出すという、財務官としての精一杯の、そして無様な降伏儀式である。


「申し訳ありません。ですが、この十五日の支出、複利計算の観点から見ても、明らかに不自然ですわ。これを放置するのは、国家の損失にも等しい……。財務官として、見過ごすわけにはいかなかったのです!」


「……黙りなさい、この計算バカ。それは、来月にある貴女の誕生日のための、極秘の積立金よ」


「え?」


 衝撃の事実に、私の思考回路が派手な火花を散らしてショートを起こした。

 積立金。私への、贈り物。

 そう言われてみれば、毎月の金額の推移は、私が以前『一度でいいから実物を見てみたい』と零した、古い稀少な算術書の市場価格と、完全に一致するではないか。

 端数まで完璧に、その書の保存状態によるプレミアム価格を含んだ数値であった。


【ああ、もう。サプライズにするはずでしたのに、この女のせいで台無しですわ。恥ずかしさで死んでしまいそうですわよ。……けれど、これほどまでにわたくしの記録に執着されるのは、わたくしがそれだけ彼女に愛されているということかしら。いえ、それ以前にこの無作法、たっぷりとお仕置きして差し上げなくては、気が済みませんわ】


 エルメリンダの顔が、怒りと羞恥で熟した林檎のように赤く染まる。

 私は、自らの軽率な行動が、親友の純粋な好意を無残に暴いてしまったことに気づき、今さらながら深い後悔に襲われた。

 数字は嘘をつかないが、時として残酷なまでに真実を暴きすぎてしまう。

 その真実が、愛という名の不可視のエネルギーで構成されている場合、私の演算能力は無力化されるしかなかった。


「……ごめんなさい、エルメリンダ。私は、その、あまりに数字が恋しくて」


「いいえ、謝罪は聞き飽きましたわ。貴女には、もっと別の形で責任を取ってもらいます。その冴え渡る頭脳を、別のことに使ってもらいましょうか」


 彼女は私の手から家計簿を力強く奪い取ると、それを机の奥深くへとしまい込んだ。

 そして、私の手首を掴み、寝台へと抗いようのない力で引き寄せる。


「いい、今夜はもう一文字も書かせないし、計算もさせないわ。朝まで私の思い出話を聞き続けなさい。もし寝落ちしようものなら、明日の一日、貴女の視界に入る全ての数字を、黒塗りのインクで塗り潰して差し上げますわよ。カレンダーも、時計も、値札もね」


「そ、それだけはご容赦を! 数字のない世界など、私にとっては盲目も同然ですわ!」


 私は、観念して彼女の隣に横たわった。

 首根っこを掴まれて連行された昨夜に続き、今夜は親友の独演会という名の精神的監獄に囚われることとなったのである。

 しかし、消灯された暗闇の中で、隣から聞こえてくる彼女の少しだけ早まった鼓動のリズムは、どんな精密な時計の刻みよりも、私の荒んだ心を穏やかに整えてくれるのであった。


(数字では計れない価値というものが、この世には確かに存在する。……それを知ることができただけでも、この休暇には、国家予算にも匹敵する価値があったと言えるのかもしれませんわ)


 私は、静かに目を閉じた。

 明日になれば、また新しい数字の戦場が待っている。

 けれど、今この瞬間だけは、計算不能な愛情の海に深く沈んでいくのも、悪くないと感じていた。

 親友の温もりを感じながら、私は人生という名の、答えのない数式の美しさを噛みしめるのであった。

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