第061話 肉の香りに包囲され、安眠を強いる親友の情愛は断りきれぬ贈り物ですわ
白銀の食器が触れ合う高い音と、香ばしい脂の焼ける匂いが鼻腔を突き抜ける。
財務局から米袋のように担ぎ出された私は、王都でも指折りの料理店の一室へと、文字通り投げ込まれてしまった。
目の前には、厚さ数センチはあるかと思われる、滴る肉汁を湛えた極上の肉が鎮座している。その存在感は、私がさっきまで格闘していた予算書の束よりも遥かに重々しく、そして暴力的なまでに私の本能を揺さぶった。
この料理店は、かつて私がロートレック家の財政を立て直した際、エルメリンダと共に訪れた思い出の場所でもある。
あの時はまだ、彼女も私も、これほどまでに重い責任を背負ってはいなかった。だが、今の彼女は『財務局特別環境整備係』などという奇妙な肩書きを自称し、私を強引にこの場所に連行したのだ。
「さあ、食べた食べた! 一口ごとに血の気が戻るわよ、セレスティーナ!」
エルメリンダは私の向かい側に腰掛け、満面の笑みでナイフを差し出してきた。その瞳には、親友としての深い思いやりと、獲物を逃さない猟師のような鋭い光が同居している。
(……なんて厚顔無恥な)
私は彼女の勢いに圧倒されながらも、心の中で毒づく。しかし、空腹が限界に達していた私の胃袋は、目の前の馳走に対して正直すぎる反応を示していた。
(私が今、この一食に費やす時間があれば、没収資産の鑑定が少なくとも三件は終わっていますわ)
時間の損失を金貨に換算し、その非効率性に目眩を覚える。だが、私の理屈を嘲笑うかのように、焼き立ての肉の香りが部屋中に満ちていた。
(肉の焼き加減を論じる暇があるなら、国の予算について語り合うべきですわ!)
私は眉間に皺を寄せ、差し出されたナイフを視線で射抜いた。この国の財政を預かる身として、あまりにも道理に合わない振る舞いに憤りを覚える。
「エル、再三申し上げますが、わたくしにこれほどの量は必要ありませんわ。胃に重い負担をかけるのは、仕事の効率を下げるだけです。半分、いえ、三分の二は返却することを提案しますわ」
そう告げて私は、手元の算盤の珠を弾く代わりに、皿の上の肉の体積を視測した。この一皿に費やされた金貨を地方の灌漑設備の修繕費に回せば、一体どれほどの民が救われるか。そんな計算が、嫌でも脳裏を支配する。
「却下よ。却下! 貴女の胃袋は今、赤字を出し続けているボロボロの国と同じだわ」
エルメリンダは私の言葉を鼻で笑い、さらにもう一切れ、分厚い肉を私の皿へと放り込んだ。彼女の行動には一切の迷いがない。まるで私の拒絶すらも計算に入れているかのような、図太いまでの献身。
「この国の食糧事情を考えても、このような贅沢は慎むべきです。無駄を省くことこそ、私の信条なのですから」
私の正論に対し、彼女は不敵な笑みを深めた。そして、私の手から力ずくでフォークを奪い取ると、自ら肉を切り分け、私の口元へと突きつけた。
「まずは無理にでも現物を投入して、基礎体力を立て直さなきゃ。ほらほら、その一切れを飲み込みなさい。噛むのが面倒なら、私が噛み砕いて流し込んであげようか?」
「……淑女の皮を被った野獣のような提案はやめていただけますかしら。分かりましたわよ、食べればいいのでしょう、食べれば!」
私は忌々しげに肉を奪い返し、口へと運ぶ。途端、舌の上でとろけるような濃厚な旨味が広がり、脳の奥で火花が散った。極限まで頭を働かせていた反動か、体の一つ一つがこの栄養を欲していたのだと、肉体が裏切りの叫びを上げる。計算ばかりで乾ききっていた私の喉が、肉汁の洪水に押し流されていく。
(ああ、なんてこと。私の高潔な精神が、たった一切れの肉に負けようとしているなんて)
自らの意志の脆さに愕然とする。だが、噛みしめるほどに溢れ出す脂の甘みが、私の脳を麻痺させていった。
(いえ、これは計算の一部ですわ。この脂は、明日以降の過酷な労働に必要な燃料。そう、これは補給という名の、事務的な行為なのですわ)
必死に論理武装を試みるが、心拍数の上昇までは抑えきれない。この贅沢を許容することが、今の私には最大の背徳であり、同時に救いでもあった。
(断じて、美味しいなどと……思ってなど……。けれど、この舌の上でほどける甘みだけは、帳簿の数字では説明がつきませんわね)
肉を噛みしめるたびに、重く澱んでいた思考が少しずつ解きほぐされていくのを感じる。算盤の珠を弾く音だけが支配していた私の世界に、エルメリンダが持ち込んだ熱が強引に割り込んできた。彼女は、私がどれだけ冷たく突き放そうとしても、あの日から変わらずに隣にいる。
「あら、顔が緩んでいるわよ?やっぱり貴女も、数字より肉の方が好きなのよね」
彼女は我が意を得たりとばかりに、私の杯に赤い液体を注ぎ足した。その揶揄するような声に、私は反論の言葉を探すが、幸福感に満たされた脳は、鋭い毒舌を生成することを拒否している。
「失礼な。これは噛む運動の結果、顔の筋肉が一時的に緩んだに過ぎませんわ。勘違いしないでくださる?」
頬に集まる熱を隠すように、私はワインを一口煽った。芳醇な香りが鼻に抜け、私の頑なだった意志をさらに柔らかく解かしていく。
「本当はもっと早くこうしてあげたかったんだけどね。貴女があまりに近寄り難い顔をしてるから、局長に泣きつかれるまで待つしかなかったじゃない」
彼女の告白に、私は苦い思いで財務局に残してきた仕事の山を思い出す。クライン局長も、まさかこれほどまでに強引な手段を彼女に期待していたというのか。
「財務局の不届き者たちについては、明日、徹底的な意識改革の予算を組んで差し上げますわ。クライン局長も、私を追い出すためだけに伯爵令嬢を動員するなど、予算の無駄遣いも甚だしいですわね」
私の強がりを、彼女は涼しい顔で聞き流している。食事が終われば、次は休養という名のさらなる関門が待っているのだろう。彼女は既に、私が逃げ出さないように扉の前に自身が立ちはだかり、窓の外にはロートレック家の私兵まで配備しているようだった。
(……徹底していますわね。財務局特別環境整備係、という自称も、嘘ではないようですわ)
その隙のない配置に、私は内心で舌を巻く。彼女の行動は、いつだって私の想定を軽々と飛び越えていく。
(王族ですら彼女のこの勢いには手を焼いていると聞きますし、私の安眠という名の聖域は、今夜、鉄壁の守りによって保たれるというわけですわね)
逃げ場を失ったことを理解し、私は諦めに似た安堵感を覚える。算盤を取り上げられた私に、これほどまでの包囲網を敷く執念には、敬意さえ感じてしまう。
(逃げ出す計算式を立てるだけ無駄だということですわ。算盤を取り上げられた私に、これほどまでの包囲網を敷くなんて)
窓の外には、夜の闇が降りようとしている。かつて私が救った伯爵家の令嬢は、今や私をこの世で最も理不尽に、そして温かく拘束する看守となっていた。料理店の中は、財務局の冷え切った空気とは対照的に、暖炉の火と人の活気に満ちている。
(全く、困った親友を持ってしまいましたわ。私をここまで無防備にさせるのは、世界中で彼女くらいのもの)
私の思考から、徐々に国庫の残高や利子率の推移が消えていく。代わりに、目の前の親友の笑顔が、鮮明に意識を占めていった。
(今夜くらいは、数字の羅列から離れて、この騒がしい愛情に身を委ねてみるのも……悪くないのかもしれませんわね)
私はふと、自分の肩の力が抜けていることに気づく。張り詰めていた弦が、彼女の乱暴な手解きによって、ようやく緩んだのだ。
(この肉を完食するまで、私はただの十五歳の少女に戻ってもよろしいかしら)
「さあ、次は甘いものよ! 甘味は別腹って、財務局の規則にも書いてあるんでしょう?」
満足げに皿を下げる彼女の様子に、私はもはや呆れることしかできなかった。この女の辞書には、遠慮という言葉も節度という概念も存在しないらしい。
「書いてあるはずがございませんでしょう! どこまで財務局を私物化するおつもりなの」
私が鋭く言い返しても、彼女は意に介さず、色とりどりの果実が乗ったケーキを注文した。そして、私の反論を封じるように、身を乗り出して耳元で囁く。
「食べないなら、私が貴女の膝の上に乗って無理やり食べさせるから! ロートレック家の名誉にかけて、一滴残らず流し込んであげるわよ! さぁ、口を開けなさい、セレスティーナ!」
「……ですが、そうね。余った予算の範囲内でなら、考えて差し上げてもよろしくてよ。ただし、一口だけですわよ」
私は小さく溜息を吐きながらも、差し出された匙を手に取った。王国の立て直しという長く険しい道のりの途中で、この不器用な食卓だけが、私の心を繋ぎ止める重しのようになっているようだった。エルメリンダの笑い声が、執務室の静寂で凍りついていた私の心を、確実に溶かしていく。
(……ふん。明日になれば、また私は氷のような言葉で部下を叱り、冷たい算盤で人の首を撥ねることになるでしょう)
その役割を捨てることはできない。私はこの国の財政を支える、ただ一つの歯車なのだから。
(けれど、今この瞬間だけは、この理不尽なまでの温かさに甘んじることを、自分に許して差し上げますわ)
自分の弱さを認めることは、敗北ではないのかもしれない。エルメリンダの隣でなら、そう思える。
(これもまた、明日を生き抜くための、必要な経費なのですから。……そうでしょう?エル)
心の中で問いかけても、彼女はただ愉快そうに笑うだけだ。その笑顔が、今の私にはどんな収支報告書よりも信頼できるものに見えた。
(あぁ、いけませんわ。この温もりに慣れてしまえば、明日の朝、再び冷たい算盤を手に取る時に迷いが生じてしまう)
私は自身の深淵を覗き込み、そこに咲いた小さな熱に怯える。冷徹な財務官であり続けるためには、この感情は不純物でしかないはずだ。
(私はあくまで財務官、国の盾とならなければならないのに。けれど、今は……彼女の笑い声に、甘んじることを自分に許してしまいそうですわ)
矛盾に引き裂かれながらも、私は二口目のケーキを運ぶ。甘さが喉を通るたびに、理性の壁が少しずつ崩れていく。
(私の帳簿にはない計測不能な幸福という名の負債が、どんどん積み上がっていきますわね)
返済のあてはない。だが、その負債を背負い続けることが、それほど苦痛ではないことに困惑する。
(でも、この負債なら、一生かけて返していってもいいかもしれない、なんて。……柄にもないことを考えてしまいましたわ)
私は最後のケーキを口に運び、ゆっくりとその甘みを噛み締めた。それは、どのような高度な数式を用いても算出することのできない、明日への活力を与えてくれる魔法のような味わいだった。
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