第060話 国家の頭脳を担ぎ上げる無頼の腕は、道理を蹴散らす友情という名の暴挙ですわ
嵐が過ぎ去った後の大ホールから始まった、終わりのない清算作業。
財務局の一画、私の執務デスクの周囲には、接収した二十三家の領地目録、隠し口座の照合表、そして爵位剥奪に伴う経済的損失の補填計画書が、城郭のように高く積み上げられていた。
私はその要塞の中心で、一心不乱に算盤を弾き続けている。
パチ、パチパチ、パチ。
乾いた音が、呼吸すら許さぬ重苦しい室内で鳴り響く。
背後では、若手の書記官たちが、青白い顔で震えながら私の指示を待っていた。彼らの手に握られたペンが、恐れでカタカタと音を立て、羊皮紙を汚しているのが分かる。
隣国との交易関税の見直しにより、一分一秒単位で国庫の推移が変動しているこの状況において、一銭の誤差も許されない。
私がこの場を離れることこそが、王国にとって最大級の損失。効率の悪い部下たちの手際を待っている余裕など、どこにも存在しなかった。
(……おどおどと、見苦しいですわね。あと三割、計算の速さを上げてもらわなくては、今期中の清算が終わりませんわ。私の目が届かぬ一瞬の隙に、どれだけの無駄な金が流れると思っているのかしら。教育が足りなくてよ、教育が。彼らの怠慢こそが、国を蝕む病根に他なりませんわ)
私が鋭い視線を向け、無能な部下を叱責しようとした、その時だった。
財務局の象徴とも言える重厚な扉が、一切の遠慮なく、耳を劈くような轟音と共に蹴破られた。
「――そこまでだ、セレスティーナ!」
現れたのは、磨き抜かれた美しさを誇る十五歳の少女。
ロートレック伯爵家の令嬢であり、私の唯一無二の親友。
そして、自らを『財務局特別環境整備係』と称して憚らない、エルメリンダ・ロートレックだった。
彼女の隣には、なぜか酷く疲れ切った顔をしたクライン局長が立っている。
局長は、私のデスクに山積みにされた書類の山と、今にも恐怖で倒れそうな書記官たちの様子を一瞥し、深く、深く、肺の中の毒をすべて吐き出すかのように溜息を吐いた。
「局長、これはどういうことですの。今は大切な審議の直前。部外者の立ち入りは、たとえ伯爵令嬢といえども認められませんわ。この扉の修理代、彼女の家の口座から差し引いておきますわね」
「言葉通りだよ、セレスティーナ。君がそこに座り続けている限り、部下たちが怯えてまともに休みも取れんのだ。頼むから、今日という今日は大人しく帰ってくれ。君の顔色は、もはや生きた人間のそれではない」
「休み? 何を寝ぼけたことを。現在、帳簿の上では、数万の民の命運が揺れ動いているのです。それを投げ出して休めと仰るの? そんな道理、わたくしの算盤にはございませんわ」
「理屈はもういい。話は終わりだ。……おい、特別環境整備係。やれ」
局長の合図と共に、エルメリンダが野獣のような速さで距離を詰めてきた。
「了解したわ、局長。任せておいて。この、数字しか愛せない可哀想な親友を、私が責任を持って連れ出してあげるから!」
「ちょっと、エル! あなた、何を――ひゃあっ!?」
抵抗する間もなかった。
エルメリンダは、私の腰をその細い体からは想像もつかないような力で掴むと、あろうことか財務官たる私を、無造作に、そう、まるで市場で売られている米袋でも扱うかのように、その肩へと担ぎ上げた。
視界が急激に反転し、私の鼻先には彼女の絹のような髪が揺れる。
淑女としてはあるまじき、あまりにも野蛮で、あまりにも物理的な拘束。
足が宙を泳ぎ、ドレスの裾が乱れるのも構わず、彼女は私を運んでいく。
「何を、何を考えていらっしゃいますの! わたくしを誰だと思っているのかしら。王国の財布を握る文字通りの頭脳なのですよ。それを、このような乱暴な扱いで……。これではまるで、攫われていく子豚のようではありませんか! 一生の不覚ですわ!」
エルメリンダは私の叫びも聞こえてないふりをする。
「放しなさい! 無礼千万ですわよ、エル! この私をどなただと思っていらして。国家の頭脳を、このような暴力で押さえつけるなど、法が許しませんわ!」
「頭脳が働きすぎて、肝心の体が枯れ木同然じゃない。今の貴女は、数字を吐き出すだけの、呪いのかかった道具だわ。ロートレック家の恩人がそんな無様な姿で倒れるなんて、私が許さない。さあ、行くわよ!」
「呪いとは失礼な! 離しなさい、まだ予算の最終確認が……! あのアホな地方官たちがどれだけの無駄遣いを通すと思っているのです!」
私は必死に抵抗し、手に持っていた算盤を振り回した。
逆さまに吊るされた状態で、床を、柱を、エルメリンダの背中を、算盤の枠でガンガンと叩きつける。
パチパチと激しく鳴り響く珠の音が、空しく廊下に反響した。
(……なんて力ですの。十五歳の少女の筋力ではありませんわ。これでは、私がどれだけ論理的に正論を並べ立てても、筋肉という名の理不尽にすべて踏み倒されてしまいますわ。ああ、忌々しい!)
「離しなさい! 一分一秒が国富の損失ですわ! わたくしがいない間に流れる金貨の音を、貴女には聞こえないのですか! 離せ、この乱暴者!」
「なんとでも言いなさい。数値の攻撃には慣れているけれど、このくらいの抵抗なんて、羽虫が飛んでいるようなものだわ。貴女がどれだけ喚こうが、私の足は止まらないわよぉ!」
エルメリンダは私の叫びなど風の音ほどにも感じていない様子で、令嬢とは思えぬ豪胆な足取りで廊下を闊歩する。
すれ違う財務局の職員たちが、驚きの表情で道を空けていく。
彼女が『財務局特別環境整備係』を自称して、私の安眠を守るために箒を振り回し、王族や騎士さえも追い払う姿を知っている者たちは、もはや救世主を見るような、清々しい目で私たちを見送っていた。
(……あの男、あとで絶対に予算を削ってやりますわ。私を追い出して安堵している顔、しっかりとこの目に焼き付けましたからね。……いえ、それよりも今は、この屈辱的な体勢をどうにかしなくては)
「どこへ連れて行くつもりですの。今すぐ執務室へ戻しなさい。さもなければ、来年度の予算をすべて、花を育てるための土の購入費に振り替えてやりますわよ! 財務局が花壇になっても知りませんわよ!」
「脅しは効かないわ。今の私に下された唯一の任務は、貴女の胃袋を肉で満たすことなんだから。貴女が計算式の代わりに脂の乗り具合を考えるまで、私は離さないわよ!」
エルメリンダの声は、揺るぎない決意に満ちていた。
彼女にとって、王国の財政よりも、私の体調の方が優先順位が高いのだ。そのあまりにも不器用で、一方的な愛に、私の思考回路は不全を起こし始める。
「まずは肉よ。脂の乗った最高のお肉を食べさせるわ。その後は無理やりにでも寝かせてあげる。王族が来ようが騎士が来ようが、私の箒が追い払ってあげるから、安心して目を閉じなさい。……いい、セレスティーナ。貴女は一人で戦っているんじゃないのよ」
「肉。……私は今、効率を考えて保存食をかじっていれば十分だと申し上げているのに。計算の途中に食べるなどという無駄な時間を割けるはずがございませんわ! あぁもう、離しなさい!」
「黙りなさい。食べなきゃ、貴女のその大事な算盤を薪にして、お肉を焼いてやろうか? それとも、口を抉じ開けて流し込んでやろうか?」
恐ろしい宣告と共に、彼女の足取りはさらに早まった。
財務局の出口へと続く大扉。
そこから外へ排出される直前、私は最後に一度だけ、ありったけの力を込めて算盤を大きく振りかぶり、財務局の重い扉を叩きつけた。
「覚えていらっしゃい! 明日の朝一番には、利息をつけてこの借りを返して差し上げますわ――! 局長も、エルも、全員まとめて地獄の計算表に叩き込んであげますからね!」
空に消えた私の叫びは、冷たい冬の風に流されていった。
担ぎ上げられたまま、私は不覚にも、かつて破滅の淵から救い上げたはずの親友に、今度は物理的に救い上げられているという屈辱的な、けれどどこか心地よい敗北感を抱かざるを得なかった。
(……フンッ。これほど無駄の多い休みなど、私の計算式には存在しませんのに。けれど、この親友の腕の強さだけは、どれだけ数字を積み上げても、計算しきれないほどに厄介ですわね。……今夜の肉は、よほど高くつきますわよ、エルメリンダ。貴女のその、お節介という名の負債を、どう清算してくれましょうかしら)
エルメリンダに担がれたまま、私は一人愚痴るのだった。
ブックマーク、評価をお願い致します。
レビュー、感想等もお待ちしております。
誤字、脱字等がありましたらご報告をお願い致します。




