第059話 熱を帯びた算盤の静寂は、不器用な労いの調べで満たされますわ
嵐が過ぎ去った後の大ホールには、もはや怒号も、命乞いの叫びも、鉄のぶつかり合う不吉な音も残っていない。
窓から差し込む朝陽は、無造作に床に転がった数多の剣を照らし出し、それらがもはや主を失った無価値な鉄屑に過ぎないことを無慈悲に証明しているようだった。
近衛騎士団によって引き立てられていった貴族たちの、あがき、もがく足跡が、大理石の床に醜く刻まれている。
私は、その惨状を二階の回廊から見下ろしながら、ゆっくりと肺の中の毒を吐き出すように息を漏らした。
胸の奥で、張り詰めていた鋼の弦が、音も立てずに緩んでいく。
数分前まで、ここは国を揺るがす断罪の刑場であった。
だが、今はただ、重苦しい空気が澱んでいるだけの巨大な空洞だ。
隣に立つクライン局長の方へ、ゆっくりと視線を向ける。
彼は、まるで石像のように固まったまま、部下たちが事後処理のために慌ただしく動き始める様子を凝視していた。
その横顔には、勝利の喜びなど微塵もない。
あるのは、一つの時代を自らの手で終わらせてしまったという、底知れない疲弊と、隣に立つ私という存在への、形容しがたい感情の揺らぎだけだった。
【……終わったのだな。この手で、長年この国を支配してきた者たちの息の根を止めたのだ。我が家系が守ろうとしてきた平穏を、この娘はたった一晩で粉々に粉砕してしまった】
局長の肌から伝わる震えが、私の左目を焼く。
彼は今、自らが背負った業の重さに、その背中を軋ませている。
貴族社会という名の巨大な共同体を裏切り、王の番犬として牙を剥いた報い。その重圧は、凡庸な男であれば精神を崩壊させていてもおかしくないほどに苛烈なものだ。
私は、彼から視線を外し、自らの右手を見つめた。
算盤を握りしめていた指先が、自分の意思に反して、小刻みに震えている。
感情ではない。
これは、極限まで思考を加速させ、一滴の猶予もなく数字を紡ぎ続けた肉体が上げる、物理的な悲鳴のようなものだった。
計算式の完成。
不純物の排除。
論理が導き出した答えは完璧だった。
だが、その結果として流されたのは、数えきれない人間の絶望という名の、熱を持った澱みだ。
二十三家。そこに連なる数千、数万の人生を、私は無価値な数字として切り捨てたのだ。
(あぁ、指が。……まるで、冷え切った氷を掴み続けていたかのように、熱を失っているわ。私の算盤が、この国の血を吸い上げた報いかしら。……いいえ、まだ足りない。この震えさえも、計算の誤差として修正しなければ】
自身の内側に広がる空虚な闇。
それを誰にも、この国の最高権力者である陛下にさえも悟られぬよう、私は震える手をドレスの深い襞に隠し、背筋を伸ばした。
財務官たる私は、いかなる時も、揺らぐことのない数字の体現者でなければならないから。
「局長……。いつまで、そのように呆けていらっしゃるのですか? まだ、やるべきことは山積みですわよ。接収した資産の再計算、封印すべき屋敷の目録作成、それに、空位となった爵位がもたらす経済的空白の埋め合わせ――」
無理に作った鋭い声が、途中で掠れた。
自分でも驚くほど、喉が乾ききっている。
言葉を発するたびに、肺が焼けるような錯覚に陥る。
局長が、弾かれたようにこちらを振り向いた。
彼の大きな瞳が、私の蒼白な顔を、そして隠しきれず微かに震えている肩を、真っ直ぐに捉える。
彼は、何かを言いかけて口を噤んだ。
その視線には、部下に対する信頼とも、怪物に対する畏怖とも取れる、複雑な色が混ざり合っている。
「……セレスティーナ。君という人は、本当に」
局長は吐き捨てるように呟くと、乱暴に自分の頭を掻き回し、背を向けて歩き出した。
「仕事の話は後だ。今は、一刻を争う火急の用件がある。来い」
彼の言葉に、私は眉を潜めた。
まだ何か、見落とした不正があったというのか。
それとも、陛下から新たな勅命が下ったのか。
思考の歯車を再び回そうとするが、油を失った機械のように、脳の奥が鈍い痛みを訴える。
「……どのような用件かしら。わたくしの算盤が必要な案件であれば、今すぐに向かいますけれど。もしや、バルフォア侯爵の隠し口座に動きでも?」
「いいから、黙って来いと言っている」
局長の、有無を言わせぬ語気に押され、私は彼に続く。
財務局内は、まるで蜂の巣を突いたような騒ぎとなっていたが、局長が通りかかるたびに官吏たちは平伏し、道が開く。
辿り着いたのは、局長室。
重厚な扉が閉められ、外の騒がしさが完全に遮断される。
室内には、微かに古い紙とインク、そして長年使い込まれた革の香りが漂っていた。
それは、嵐の中心にいた私にとって、ひどく懐かしく、安らぎを感じさせる匂いだった。
局長は、執務机の奥にある棚から、古びた茶器と包みを取り出した。
自ら湯を沸かし、手慣れない手つきで茶葉を躍らせる。
財務局の頂点に立つ男が、使用人も介さずに茶を淹れる。その光景は、あまりにも場違いで、どこか滑稽ですらあった。
「局長、このような時に、何を。……わたくし、お遊びに付き合っている暇はございませんのよ?」
「『最高の手札』を動かした後の代領だ。受け取れ。これは局長命令だ」
差し出されたのは、湯気を立てる陶器のカップ。
中には、泥のように深い焦げ茶色の液体が揺れている。
私は戸惑いながらも、それを両手で包み込んだ。
熱い。
指先の感覚が、その熱によって少しずつ呼び戻されていく。
一口、喉に流し込む。
途端、顔が劇的に歪んだ。
「……苦い、ですわね。これを、お茶と呼ぶおつもりかしら? 淹れ方の基礎から学び直すべきではありませんか?」
「黙って飲め。甘いだけの菓子に慣れた貴族の舌には、このくらいの毒が必要だろう。……泥水を啜ってでも生き残るのが官吏の務めだ」
局長は、自身のカップを荒っぽく煽りながら、窓の外を見つめた。
彼が淹れた茶は、確かに救いようもなく苦かった。
洗練された香りもなく、ただ、野性味溢れる苦みが舌を刺す。
けれど、その暴力的なまでの苦みが、霧がかっていた私の意識を、無理やり現実に繋ぎ止めてくれる。
(あぁ、温かい……。この苦みだけが、今、私が生きている証明のように感じるわ。局長。貴方の優しさは、いつも少し、乱暴すぎるのです。けれど、今の私には、この不器用な熱こそが、何よりも必要な答えなのかもしれません】
室内を支配するのは、重苦しくも、どこか穏やかな沈黙だった。
局長は、椅子に深く腰掛け、私を見ようとはしなかった。
彼はただ、窓の外で片付けられていく、かつての権力者たちの残骸を見つめていた。
「……セレスティーナ。君が今日成し遂げたことは、この国の歴史において、数千の兵を動かし国境を広げるよりも、遥かに大きな価値がある。それを否定する者は、この国にはおらん」
彼の声は、低く、重い。
「だが、それは同時に、君がこの国の半分を、文字通り敵に回したということでもある。これから先、君の歩む道は、今日よりも険しく、そして救いようのない孤独なものになるだろう。君に群がるのは、君を恐れるか、君を利用しようとする者だけだ」
局長が、ようやく私に視線を向けた。
その瞳の中には、かつて私を疎んでいた頃の鋭さはなく、ただ、一人の少女を案じる大人の男の、深い憂いがあった。
「君は、今日この瞬間、本物の怪物になった。誰もが君を畏怖し、数字で人の首を撥ねる死神だと指差すだろう。……それでも、君は、この狂った算盤を止めないつもりか?」
私は、冷めかけた茶を最後の一滴まで飲み干し、カップを机に置いた。
指先の震えは、もう完全に止まっていた。
「あら、局長。わたくしを誰だと思っていらして? 死神などという情緒的な評価は、わたくしの計算式には含まれませんわ。それは論理の欠如した、敗北者の吐き捨てる無意味な単語です」
私は立ち上がり、乱れたドレスの裾を優雅に整えた。
左目が捉える世界は、相変わらず無数の数字と、損得の数式で構成されている。
だが、その数字の奔流の向こう側に、少しだけ、今まで見えなかった景色が混ざっているような気がした。
「わたくしは、ただの財務官です。……王国の帳簿が、正しく清算され、不純な負債がすべて消えるその日まで、わたくしの算盤は止まりません。それが、たとえ地獄へと続く計算であっても、わたくしは最後まで一銭の狂いもなく弾き続けてみせますわ」
局長は、呆れたように鼻を鳴らした。
けれど、その口角は、わずかに上がっていた。
「……ふん、相変わらず、可愛げのない返答だ。だが、まあ、いい。君が計算に躓き、その算盤ごと倒れるときは、俺がその横に立ってやる。財務局の予算と、俺の残りの寿命の範囲内でな」
(局長……。その言葉、しっかりと心の帳簿に刻んでおきますわよ。……決して、忘れさせたりなどいたしません。貴方もまた、私の算盤の上で、最後まで踊り続けていただきますわ)
私は小さく微笑み、再び氷の仮面を被る。
局長室を出る私の背中に、局長の声が追いかけてきた。
「おい、セレスティーナ。次はもう少し、まともな茶葉を用意しておく。君の好みを、調査させておこう」
私は答えず、ただ優雅に手を振って、戦場へと戻る。
廊下の向こうでは、没収された金貨を運ぶ馬車の音が、まるで軍靴の響きのように、王都の空に轟き始めていた。
王国の再生という名の、あまりにも膨大な、そして残酷な清算が、本格的に幕を開けようとしているのだ。
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