第005話 税金を払いたい領民と、受け取りを拒む伯爵。我が家は「究極の譲り合い」で破綻寸前です
アデレイド領の朝は、小鳥のさえずりよりも先に、正面玄関から響き渡る熱狂的な懇願の声で始まった。
私が微睡みの中から意識を引き戻され、寝間着のままバルコニーから中庭を見下ろしたとき、そこには武装した暴徒でも、施しを求める飢えた貧民でもない、活気と熱気に満ち溢れた領民たちの巨大な行列が形成されていた。彼らは泥のついた作業着を端正に整え、収穫したばかりの黄金色の穀物袋や、ずっしりと重そうな革袋を、まるで神に捧げる供物のように大切に抱えている。
私の左目が捉える彼らの頭上には、朝露を透かした宝石のように輝く感謝と、一分一秒でも早く主に尽くしたいという狂信的な吹き出しが、視界を埋め尽くすほどに、感謝と献身が乱立していた。
「領主様! 領主様はいらっしゃいませんか! 今年の冬は例年になく暖かく、大麦も小麦も、見たこともないほどの豊作に恵まれました。これはすべて、領主様が常に私たちの健康を気遣い、古くなった農具を無償で直してくださったおかげです。どうか、今年の税とは別に、この感謝のしるしを受け取ってください!」
代表の村人が、金貨が詰まった革袋を天に突き出すように差し出す。それに対し、バルコニーに姿を現したお父様は、まるで聖画から抜け出してきた聖者のような微笑みを浮かべ、あろうことかその提案を、柔らかく、しかし断固として押し返したのである。
「とんでもないことだ、皆。その豊作は、君たちが泥にまみれ、腰を痛めるまで懸命に働いた、尊い汗と努力の成果だ。その余剰分は、君たちの家族がより温かい食事を摂るために、あるいは子供たちの新しい服を買うために使いなさい。アデレイド家は、領民である君たちが笑顔でいてくれるだけで、金貨よりも価値のある宝を手に入れているのだから」
「そんな! それでは私たちの誇りが保てません! 領主様にこそ、王都の貴族に負けないような、もっと豪華な馬車に乗っていただきたいのです!」
「いやいや、私のことは気にしなくていい。馬車なら、今の木製のものが一番馴染んでいて心地いいのだよ。さあ、その袋を持って帰り、今夜は村中で盛大な宴を開きなさい」
(……た、助けて。過呼吸だわ。左目だけじゃなくて、肺の肺胞一つ一つが、この『地獄のホワイト環境』に悲鳴を上げているわ!)
私は、震える指先でバルコニーの手すりを掴み、崩れ落ちそうになる膝を必死に支えた。
左目が映し出すお父様の吹き出しは、もはや人間としての生存本能を放棄したレベルの無欲。
【みんなが幸せなら、私は霞を食べてでも、ボロ布を纏ってでも生きていける!】
そして領民たちの吹き出しは、愛ゆえの強迫観念。
【こんなに素晴らしい領主様に報いられないなんて、生きている価値がない! 無理にでも金貨を置いていくぞ!】
傍から見れば、これほど美しく、慈愛に満ちた主従関係はないだろう。しかし、前世で予算不足によるプロジェクトの凍結や善意によるサービス残業の末の破綻を嫌というほど見てきた松瀬結衣としての私の魂が、警鐘を乱打していた。
経済とは循環である。適正な税が納められ、それが公共事業や防衛に投資されることで、初めて領地の安寧は保たれる。お父様が個人的な満足感のために受け取りを拒否し続ければ、いずれアデレイド家の国庫は枯渇し、橋が落ち、道が荒れ、最終的には領民たちの生活を根底から破壊することになるのだ。この究極の譲り合いは、緩やかな自死への行進に他ならないのだ。
「お父様、少し、わたくしにお時間をいただけますかしら?」
私は、お父様の柔らかな上着の裾をきゅっと掴み、バルコニーの下で殺気立つほどの善意を振りかざしている領民たちにも届くような、澄んだ声を出した。
「わたくし、最近家庭教師の先生から、とっても不思議なお空のお話を聞きましたの。お空にある大きな雲さんは、海からお水を少しずつ分けてもらって、それを雨にして大地に降らせますわよね? もし海さんが『私のお水は一滴もあげません、全部私のものですから』と意地を張ったら、雲さんは雨を降らせられなくなって、最後には大地も、海さんも、みんな干からびて死んでしまいますわ」
「セレスティーナ?それは一体どういう例えだい?」
お父様が不思議そうに首を傾げる。私はその瞳を真っ直ぐに見つめ、前世の会議室で持続可能な収益モデルを説いた時の、あの研ぎ澄まされた理性をその小さな全身に宿す。
「村の皆様。皆様がお父様に金貨を差し上げるのは、お父様に美味しいものを食べさせるためだけではありませんわ。このアデレイド領という大きな庭をずっと守るための、大切なお水を預けることなのです。橋が壊れたとき、悪い病が流行ったとき、お父様の手元にお水がなければ、皆様を助ける魔法が使えなくなってしまいますわ。皆様は、お父様を無力な魔法使いにしたいのですか?」
村人たちの吹き出しが、一斉に納得の緑色へと鮮やかに反転した。
【……そうか! 我らの金貨は献上品ではなく、未来の危機に備えるための共同の盾なんだ!】
「そして、お父様」
私はお父様の顔を見上げ、今度は、部下の献身を無下にする無能な上司を断罪する時のような、鋭い正論を突きつけた。
「皆様の捧げたいという誇り高い真心を受け取らないのは、皆様を信じていないことと同じですわ。お父様が皆様を愛していらっしゃるように、皆様もお父様に『自分たちの命運を管理してほしい』と信頼を託していらっしゃるのです...お父様は、その信頼という名の重みを、たかが金貨という小さな理由で拒んでしまわれるのですか?」
【……信頼の重み。そうか、私は彼らを守るべき弱者としてしか見ていなかった。対等な誇りを持つ者として接していなかったのは、私の方だったのか!】
お父様の吹き出しが、霧が晴れるように深い青色……真の統治者としての責任と覚悟を秘めた色彩へと研ぎ澄まされた。
お父様は静かに頷き、再び領民たちへと向き直る。その背中には、先ほどまでの『お人好しの貴族』ではない、一領を背負う当主としての威厳が宿っていた。
「……すまなかった、皆。私の考えが浅かった。君たちが預けてくれるその志、確かにアデレイドの家名にかけて預かろう。これは君たちへの施しでも、私への贈り物でもない。この領地を百年先、千年先まで繁栄させるための共同の誓いだ。預かった金貨は、まずは村の広場への街灯設置と、老朽化した北の水路の全面改修に充てることをここに約束しよう!」
「領主様……! お嬢様……! ありがとうございます!」
領民たちの地響きのような歓声が、冬の澄んだ空へと吸い込まれていく。
ようやく正当な税と追加の献上金が、帳簿上の適切な項目へと流れ込むことになり、私は胃の辺りを押さえながら密かに安堵の吐息を漏らした。
だが、ふと視線を庭園の隅に移せば、今度はお母様が領民の奥様たちと
「これ、うちの特注の刺繍布です」
「いえ、そんな貴重なもの頂けません、代わりにこの秘伝のジャムを」
「とんでもない、ジャムなんて……」
という、新たな、転機、そして果てしない譲り合いの無限地獄を生成し始めていた。
(……悪意を排除するよりも、暴走する善意を適正な水路に導く方が、何千倍、何億倍も精神を削りますわ)
私は、もはや自分の分身となった木製算盤を抱き直し、お母様たちの愛の押し問答という名の戦場を仲裁するために、再び小さな足で駆け出した。
これから始まるのは、ただの令嬢としての生活ではない。溢れすぎる善意という名の激流を、領地の繁栄という名の運河へと繋ぎ止めるための終わりのない調整と改革の道なのだ。
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