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搾取令嬢は二度と騙されない ~嘘を見抜く左目で、すべてを取り戻します~  作者: 第三ひよこ丸


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第056話 深夜の執務室は断頭台、左目が暴くは隣国を蝕む金利上昇の死告ですわ

 華やかな舞踏会の喧騒は、厚い石壁が幾重にも重なる沈黙の向こう側へと、完全に隔離された。

 

 深夜の財務局、私の執務室。そこは、日中の熱狂が嘘のように凍りつき、ただ窓から差し込む蒼白な月光と、机の上に置かれた燭台の頼りない炎だけが支配する、逃げ場なき数字の断頭台である。空気は肌を刺すほどに冷え切り、古い羊皮紙と乾いたインクの、肺を灼くような特有の臭いが重く立ち込めていた。


 私は、財務局の象徴である濃紺のドレスの裾を、微かな衣擦れの音さえ許さぬよう静かに払い、使い古された椅子に深く腰を下ろした。革が軋む重苦しい音が、まるで死刑執行の合図のように部屋に響き渡る。目の前には、先ほどまでの完璧な貴公子としての仮面を無残に剥ぎ取られ、亡霊のように青ざめた顔で立ち尽くすヴィクトール・アシュベリー卿の姿がある。


 特使の額からは、一滴の汗が滲み出し、震える顎を伝って床へと落ちた。その微かな水の弾ける音さえ、この静寂の中では致命的な失策を告げる警鐘のように聞こえる。私は無言のまま、机の奥底に秘められた、背表紙の擦り切れた一冊の帳簿を取り出した。

 

 それは、隣国の市場における過去三ヶ月の短期資金の貸借記録を、我が国の隠密財務官たちが文字通り命を懸けて集約した、公式には存在しないはずの極秘資料である。私はそのページを、ゆっくりと、わざと指先に力を込めて捲った。


「さて、ヴィクトール卿。ここからは、淑女を惑わす甘い言葉遊びの時間ではありませんわ。銅貨一枚の誤差も猶予も許されぬ現実の精算を始めましょうか」


 私は、指先に冷たい感覚を覚えながら、愛用の銀の算盤を机の上に置いた。

 パチリ、と。玉を一つ弾く。その乾いた音が、静寂に包まれた室内で鋭く反響し、特使の心臓を直接叩いた。


「卿。貴国が提示した無関税貿易。その真の狙いは、我が国の市場を奪うことだけではありませんわね。……本当の目的は、この不自然なまでに跳ね上がった金利を隠し通すための、当座の現金を我が国から吸い上げ、崩壊寸前の国家財政に無理矢理注ぎ込むこと。違いますかしら?」


 ヴィクトール卿の肩が、見えない刃で突かれたかのように大きく跳ねた。

 私の左目が、彼の胸中に渦巻く、今にも爆発しそうな焦燥と、喉を焼き尽くすような生々しい恐怖を鮮明に捉える。


【なぜだ、なぜだ! この小娘が、なぜその数字に辿り着いた! 我が国の金庫が底を突き、中央銀行が紙屑同然の債券を乱発している事実は、国王と数人の重臣以外、知るはずがない。この事実が公になれば、我が国の信用は奈落へ落ち、明日の朝には暴徒と化した民衆が王宮を包囲するだろう。この娘、まさか我が国の内通者と繋がっているのか? それとも、帳簿の裏側に潜む死神か!】


 隣国の至宝とまで称えられたエリート外交官。その瞳に宿ったのは、一国の運命を背負いながら、そのあまりの重みに押し潰された男の、救いようのない絶望であった。


「黙っていては、計算が進みませんわよ。貴国の市場では今、市井の商人間でさえ、昨日より高い利息を払わねば金が借りられない異常事態ですわね? これは一時的な揺らぎではありません。貴国が分不相応な軍備拡張を強行し、他国の利権を強引に漁った結果、国庫の流動性が完全に死に絶えた証拠ですわ。数字は、貴方の口よりも雄弁に真実を語っております」


 私は追い打ちをかけるように、算盤の玉を電光石火の速さで滑らせていく。

 パチパチパチパチ、と。その連続する音は、隣国の寿命を刻一刻と削り取る秒読みの音に他ならない。


「無関税貿易という猛毒の蜜を我が国に啜らせ、こちらの工房を根絶やしにして得た目先の現金。……それは、瀕死の重病人に劇薬を打つようなものですわ。一時的に顔色は良くなるかもしれませんが、その先にあるのは、より無残な死のみ。貴国の病は、もはや外科手術なしには治らないところまで腐り落ちているのですわ。そしてそのメスを握っているのは、今、この場においてはわたくしだけですのよ」


 ヴィクトール卿は、耐えきれなくなったように膝から崩れ落ち、私の執務デスクに縋り付くように両手をついた。

 先ほどまでの洗練された髪は乱れ、その黒い瞳からは、私を懐柔しようとした浅ましい野心など一片も消え失せている。そこにあるのは、ただ圧倒的な数字という暴力に屈した、無力な人間の成れの果てだ。


「……伯爵。貴女は何者なのですか。十五の少女の脳内に、なぜ一国の興亡を定める巨大な計算盤が収まっているというのだ。我が国の財務官たちが一年かけても算出できなかった歪みを、なぜ貴女は数分で……」


 男の掠れた、悲鳴に近い問い。私はそれに対し、感情の一切を排した、どこまでも冷淡な微笑を向けた。


「わたくしは、ただの番犬ですわ。主の家計を脅かす不審な足音を聞き分けるのは、呼吸をするよりも容易い務め。……クライン局長、貴方もいつまで壁の向こうで、この無様な狐の末路を愉しんでいらっしゃるの? これ以上彼を晒し者にしては、財務官としての品格が疑われますわよ。それとも、局長自ら彼に引導を渡したいのかしら?」


 背後の本棚を模した隠し扉が、重い音を立てて開いた。

 深い闇の中から、クライン局長が、観念したように重厚な足取りで姿を現す。その眉間には深い皺が刻まれ、部下のあまりに苛烈な、情け容赦のない追及に対する、隠しきれない畏怖が混じっていた。


【セレスティーナ、君は本当に、人の情というものを算盤の玉と一緒に弾き飛ばしてしまったのか。……いや、これこそが私が彼女に期待した、一切の妥協を許さぬ番犬の真の姿だ。隣国の急所を数字で正確に抉り、跪かせる。だが、これからの外交的な泥沼の後始末を思うと、私の胃壁が悲鳴を上げている。まったく、恐ろしい娘だよ。この娘に睨まれれば、国王陛下とて震え上がるだろうな】


 クライン局長の本音に滲む、底知れぬ疲労と、それを遥かに凌駕する誇らしさを読み取りながら、私は算盤の最後の一打を、力強く放った。カツン、と。玉が枠に当たる鋭い音が、議論の終止符を告げる。


「ヴィクトール卿。貴方に残された道は、もはや二つしかございませんわ」


 私は、一点の曇りもない白紙の書簡を、彼の目の前へ、ゴミを捨てるかのような仕草で放り投げた。


「一つ。このままプライドを抱えて退出し、明日の朝、貴国の財政破綻が全世界へ布告されるのを、ただ指をくわえて眺めること。二つ。今この場で、貴国の全隠し口座と税収管理権を我が国の監視下に置くことを誓約し、わたくしの指し示す計算式に従って、財政の再建という名の隷属を受け入れること」


 それは、友好などという甘ったるい言葉では決して表現できない。

 隣国の心臓部である経済の生殺与奪の権を、私が、そしてこの王国が完全に掌握するという、死よりも過酷な契約である。


「さあ、選びなさいな。貴方の持つそのペンは、沈みゆく泥舟を救う最後の杭になるか、あるいは自国の墓碑銘を刻む弔いの道具になるか。わたくしの時間を、これ以上無意味な沈黙で浪費させないで。計算の合わない不毛な時間は、わたくしにとって、万死に値する苦痛なのですから」


 蒼い月光を浴びた銀の算盤が、私の手元で冷酷なまでに美しく、死神の鎌の如く輝いている。

 私は、特使が震える手で、自国の魂を売り渡すためのペンを握るのを、光の消えた瞳で、ただじっと見下ろしていた。


 夜の財務局。

 そこには、一文の誤差も許さぬ番犬が、新たな獲物の首に、二度と外れぬ鉄の鎖を繋ぐ音が、静寂を切り裂いて響き続けていた。私の眼前に広がるのは、勝利の喜びなどではなく、ただ整理されるべき膨大な負の数字の山であった。

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