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搾取令嬢は二度と騙されない ~嘘を見抜く左目で、すべてを取り戻します~  作者: 第三ひよこ丸


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第055話 仮面の舞踏会は狐の宴、左目で射抜くは隣国の外交官が仕掛ける亡国の罠ですわ

 叙爵を祝うために設えられた王宮の舞踏会。そこは表向きこそ、天上の調べを思わせる管弦の響きと、最高級の百合が放つ甘い香りに満たされた楽園である。

 だが、その煌びやかなシャンデリアの光に照らし出されているのは、海千山千の貴族たちが剥き出しの欲を隠し持ち、互いの隙を伺って徘徊する底なしの毒の沼に他ならない。


 十五歳にして伯爵の地位を得た私は、今夜、財務局の象徴である濃紺を基調とした夜会服を纏い、独りその喧騒の中に立っていた。夜の底を切り取ったかのような深い紺色の布地は、贅を尽くした令嬢たちの極彩色の衣装を冷淡に拒絶し、そこにあるだけで場を引き締めるような厳格さを湛えている。


 私の左目が、不快な光を放ちながら広間の端から端までを俯瞰する。そこに広がるのは、音楽に合わせて優雅に回る人形たちの虚像ではない。人々の胸の奥底に淀み、腐敗し、粘り気を持って溢れ出す、暗い本音の吹き出しだ。


 不意に、楽団が奏でる旋律が一段と高く響き、広間の入り口から一筋の冷たい風が流れ込んだ。人波が左右へと割れ、モーゼが海を割るが如き静寂の中を、一人の男が歩み寄ってくる。隣国より派遣された特使、ヴィクトール・アシュベリー卿。


 神の悪戯かと思えるほど整った顔立ちに、夜の海を思わせる深い黒の瞳。彼はまるで、この王宮そのものをその美貌で籠絡せんとするかのような、完璧なる貴公子の微笑を湛えていた。その一歩一歩には、計算し尽くされた気品が宿り、彼の周囲だけが別世界の如き洗練された空気に包まれていく。


 だが、私の左目が捉えた彼の本心は、研ぎ澄まされた宝石のように美しく、そしてそれ以上に猛毒の如く冷え切った殺意を孕んでいた。


【この小娘が、ハミルトンを叩き潰したという王の番犬か。確かに顔はいいが、所詮は十五の子供に過ぎん。甘い愛の言葉と、我が国が提示する巨大な利権という名の蜜を垂らしてやれば、容易く籠絡できよう】


 男の瞳の奥に蠢く、どす黒い野心。


【この娘を傀儡とし、王国の財政を内側から食い破らせ、再起不能なまでに衰退させてやる。美しい破滅の先導者になってもらおうか】


 私は、彼が恭しく差し出してきた白手袋の手を取る代わりに、扇を静かに開き、その冷ややかな口元を隠した。彼の本音に浮かぶ、一国を根底から転覆させようとする傲慢なる謀略。それを読み取った瞬間、私の胸の内を満たしたのは、恐怖でも憤怒でもなく、ただ眼前の不純な数字を完璧に精算したいという、焼け付くような財務官としての渇望でしかなかった。


「これは、隣国の至宝と謳われるヴィクトール卿ではありませんか」


 私の冷淡な問いかけに、男の微笑みがわずかに深まる。


「わたくしのような、算盤の音しか知らぬ一介の官吏に、どのような御用かしら?」


 さらに私は、扇越しに彼の瞳を射抜いた。


「もしや、我が国の金貨の重さが、貴国のお気に召さなかったのかしら?」


 ヴィクトール卿は片眉をわずかに上げ、さらに深く、人を惑わす甘い微笑を浮かべた。


「滅相もございません、マッセ伯爵。私はただ、これほど若くして国を背負う稀代の才女に、我が国からの真摯なる贈り物を持参したまで」


 男は慇懃な態度を崩さず、流れるような口調で言葉を続ける。


「隣国との間に新たな交易路を拓き、無関税でのやり取りを認める友好の盟約。これを貴女の手で成立させれば、貴女の名声は不滅のものとなりましょう」


 さらに甘い言葉を重ね、彼は私の懐へ入り込もうと画策する。


「マッセ家には一生遊び暮らせるほどの富が舞い込みます。民は喜び、貴女は潤う。これ以上の幸福がありましょうか?」


 彼の言葉が広間に響き渡るや否や、聞き耳を立てていた周囲の貴族たちから、隠しきれない驚きと欲望の溜息が漏れた。無関税貿易。それは表面的には、国を富ませ、関わった者に莫大な恩恵をもたらす、光り輝く夢の提案に見えるだろう。


 しかし、私の脳内ではすでに、算盤の玉が火花を散らすほどの速さで弾き出されていた。


 

 思い出すのは、伯爵位を賜った直後、財務局の地下書庫で過ごした孤独な夜だ。埃の積もった禁忌の交易記録、過去十年の全通関目録、そして国内の各ギルドから集められた血の滲むような納税報告書。

 

 私がそこまでして情報の海を泳ぎ続けたのは、決して私事のためではない。局長であるゼノス・ヴァン・クライン伯爵から『この国の嘘をすべて飲み込め』と課された過酷な試練に応え、何者にも揺るがされない財務の番犬としての基準(ものさし)を構築するためであった。


 あの日、石畳の冷たさに耐え、蝋燭の火が尽きるまで数字と格闘し続けた時間が、今の私に最強の武器を与えていた。隣国がどの物資を安く作り、我が国のどの産業を窒息させようとしているのか。その牙の形を、私は出会う前から知っていたのだ。


 今、目の前の男が口にした友好という言葉に付随するすべての数字が、暗記していたデータベースと瞬時に結合し、未来の絶望を弾き出す。隣国の主要な輸出品目の構成。我が国の脆弱な産業構造。そして、関税という障壁を撤廃した瞬間に失われる、国庫の純利益の予測推移。


 ヴィクトール卿の左目に再び、獲物を追い詰めた猟師のような本音が浮かび上がる。


【そう、食いつけ。この盟約が結ばれれば、王国の市場は我が国の安価な品に支配される。一年も経たぬうちにこの国の工房はすべて潰れ、経済の命脈は完全に我が国の掌中に収まるのだ。さあ、この無知な小娘よ、己の国を売り払う破滅の契約書に、その高貴な名前を記すがいい】


 私は、扇を閉じてパチンと乾いた音を立てた。その響きは、甘い夢に浸る者たちの頭を叩き起こす、峻烈なる断罪の鐘のようであった。


「素晴らしい提案ですわ、卿。ですが、わたくしの計算によれば、その盟約によって我が国が得る利益は、隣国の急激な物価変動を考慮すれば、わずか三ヶ月で赤字へと転じますわ」


 私の言葉に、ヴィクトール卿の表情が一瞬だけ揺らぐ。


「さらに言えば、貴国が提示した輸出予定品の目録……。あれに記された原材料の価格、現在の市場価値の二倍で計上されておりませんこと?」


 たたみかけるように、私は彼の欺瞞を突きつける。


「友好という名の、ただの押し売りですわね。このような不誠実な数字を、よくもまあ、わたくしの前で並べ立てられたものですわ」


 ヴィクトール卿の完璧であったはずの微笑が、一瞬だけ醜く硬直した。彼は、自らが何百人もの専門家を使って作り上げた数字の嘘を、この場で、しかも会談が始まって数分足らずで看破されるとは、夢にも思っていなかったのだろう。


【何だと……? この短時間で、我が国の隠密たちが一年かけて隠蔽した数字の歪みを突き止めたというのか。あり得ん。この娘、ただの計算機ではない……!】


 彼の驚愕と、その裏側にある底知れぬ恐怖が混じった本音が、隠しきれぬ汚泥となって私の視界を埋め尽くす。私は一歩、逃げ場を塞ぐように彼の方へと踏み出した。濃紺のドレスを纏った私の影が、彼を逃がさぬ檻のようにその場を支配する。


「卿。わたくしを誰だと思っていて?」


 私は冷たく微笑み、追い打ちをかけた。


「わたくしは、この国の帳簿を守る番犬。貴方がどのような美しい布で覆い隠そうとも、その下にある不純な一銭を、わたくしが見逃すとでもお思いかしら?」


 震える男を見下ろし、私は最終通告を突きつける。


「この舞踏会が終わるまでに、貴国が我が国へ積み上げてきた過去十年の滞納金、その利子をすべて算入して精算していただきますわ」


 さらに、私は彼の末路を淡々と告げた。


「できなければ、この場で貴方を不誠実な外交官として国外追放処分にするよう、陛下に進言いたしますことよ」


 冷ややかな視線を向け、私は言葉を締めくくる。


「貴方が次に踏むのは、王宮の絨毯ではなく、牢獄の冷たい床になるかもしれませんわね」


 ヴィクトール卿は、もはや微笑むことさえできず、ただ震える手で自身の胸元を押さえて立ち尽くしていた。その姿は、先ほどまでの優雅な外交官ではなく、自身の不正を暴かれた惨めな罪人のそれであった。


 広間の隅でその様子を眺めていた財務局長ゼノス・ヴァン・クライン伯爵が、深い溜息をつきながら酒杯を傾ける。


【セレスティーナ、君は本当に容赦がないな。隣国の若き天才まで、出会って数分で再起不能にするとは。あぁ、また明日から、他国との外交関係を修復するための事務作業が山積みになる。私の休みが、また数字の彼方へ消えていく。だが……、君がいてくれて本当に良かった。この国は、まだ死なずに済む】


 局長の、深い信頼とやりきれない諦念が混じった本音を読み取り、私は静かに喉の奥で笑った。


 狐の宴は終わった。甘い罠を仕掛けた隣国の狐は、今や、番犬の牙に怯え、自らの尾を巻く哀れな獲物へと成り下がっている。


「さて、ヴィクトール卿。わたくしの執務室へ参りましょうか」


 腰の算盤を軽く鳴らし、私は促す。


「今夜は長い夜になりますわよ。貴方の国の隠し口座、その一つひとつを、わたくしの算盤で丁寧に、根こそぎ叩き直して差し上げますから」


 私は、絶望に顔を白く染めた特使を背後に従え、月明かりの差し込む冷ややかな廊下へと歩き出した。夜の帳が降りる王宮で、私の弾く算盤の音だけが、不浄を許さぬ真実を告げる旋律となって響き渡る。


 逃げ場なき忠誠の首輪。それを誇り高く掲げ、私はこの国を汚すすべての嘘を、一文の残さず精算し続けるのだ。私の行く手に、もはや誤差などという逃げ道は存在しないのだから。

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