第054話 蜜に群がる羽虫を薙ぎ払い、左目に映る本音の膿を根こそぎ精算いたしますわ
財務局へと続く石造りの回廊は、本来であれば王国の法と秩序を司る峻烈なる沈黙が支配する場であるはずだ。
しかし、伯爵叙爵から明けたこの朝、そこは花の蜜に群がる羽虫のような亡者たちが放つ、濁りきった熱気と、隠しきれぬ欲の臭いに包まれていた。
私が一歩足を踏み出すたび、王家から授かった重厚な青のマントが床を叩き、周囲の空気が物理的な重圧を伴って凝縮していく。昨日まで私を『計算しか取り柄のない小娘』と蔑み、その存在すら無視していた者たちの瞳には、今や、金貨の音に魂を売った卑俗な色欲と、強権への醜悪なる執着がねっとりと張り付いていた。
私に向けられる視線はそれよりも鋭く、毒を含んでいた。私の左目が、その一人ひとりを射抜く。そこに映し出されるのは、彼らの口から溢れる甘い祝辞などではない。どす黒く、粘り気のある、数字に裏打ちされた本音の濁流であった。
揉み手で近づくのは、王都でも五指に入る巨大利権を握る商会の会頭であった。
脂ぎった顔を卑屈に歪ませ、仰々しく装飾された宝石箱を捧げ持つ。その丸々と太った外見とは裏腹に、左目が捉えた彼の本心は、獲物を狙う鎌のように研ぎ澄まされていた。
【若くて扱いやすそうな金蔓が、伯爵位という最高の飾りをつけて現れた。この真珠を餌に恩を売れば、来期の関税を半分は誤魔化せるな。小娘め、大人たちの汚いやり方に震えるがいい】
私は、彼が差し出した宝石箱に指一本触れることなく、ただ氷のように冷ややかな笑みを浮かべた。その微笑みは、彼の浅ましい算段をすべて見通しているという、宣告でもあった。
「これは、素晴らしい真珠ですわね。ですが、北の海からこれほどの数を運ぶには、正規の航路であれば三倍の税がかかるはず。会頭、貴殿の商会が先月提出した積荷目録には、この真珠に関する記載が一切ございませんでしたわ。……つまり、これは密輸品。これをわたくしに贈るということは、わたくしを共犯者に仕立て上げようという、王家への反逆と受け取ってもよろしいかしら?」
会頭の顔から、一瞬にして血の気が引いた。弁解の言葉を紡ごうと震える彼の唇が動くより早く、私は背後に控える財務官吏たちに、一文の容赦もない鋭い声で命じた。
「この者の商会、および全倉庫の差し押さえ令状を。今すぐ。銅貨一枚の誤差も逃さず、過去十年の帳簿を洗い直しなさい。不正が見つかれば、その首に重い税の鎖を繋ぐことになりますわよ。王国の金貨を盗む者は、その身ですべてを償うのが道理ですわ」
悲鳴のような絶叫を背に流し、私は再び歩を進める。次に立ちはだかったのは、かつて私のお父様が困窮していた際、顔を背けて無視し続けていた遠縁の叔父であった。彼の背後には、落ち着きのない様子で視線を泳がせる、放蕩息子が立っている。
【この娘を丸め込んで、アデレイド家の本宅と、新しく支給された領地を我らの名義に書き換えさせてやる。女が一人で家を切り盛りできるはずがない。我らという寄生虫が、お前の資産をすべて食いつぶしてやろう】
左目が捉えた叔父の本音は、あまりにも短絡的で、救いようのない汚泥に満ちていた。私は足を止め、叔父の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳の奥にある醜い欲望の澱みまで、すべてを暴き立てるように。
「身内……。その言葉、わたくしのお父様が借金で首が回らなかった時には、一度も聞いたことがございませんわね。むしろ、貴方様は我が家の屋敷の権利を、二束三文で買い叩こうと画策なさっていた。その際の不当な契約書、すべて私の鞄の中に保管されておりますの。今すぐ、貴方様が我が家から不当に奪った利息分、三万ゴールドを支払いいただけます? できなければ、今この場で貴方様の爵位を剥奪する手続きを始めますわ。王家を欺き、一族の誇りを汚す寄生虫に、名乗る家名は不要です!」
叔父は泡を食って後ずさりし、腰を抜かして絨毯の上に無様に転がった。周囲の貴族たちからも、隠しきれない畏怖の溜息が漏れる。
擦り寄る者たちの群れは、なおも続く。金への執着を貴婦人の微笑みで覆い隠した伯爵夫人、実態のない事業への投資を乞う自称発明家、そして、私の威光を借りて出世を望む若手官吏。彼らの本音は、どれもこれもが金であり、欲望であり、私という人間を、金貨を吐き出す装置としか見ていない。
その時、喧騒を切り裂くように、重厚な執務室の扉が開いた。現れたのは、財務局長ゼノス・ヴァン・クライン伯爵だ。彼は深く刻まれた眉間の皺をさらに深くし、手に持った書類の束を廊下の床へ叩きつけるようにして一喝した。
「静まらぬか、この亡者どもめ! ここは王国の金貨を数える神聖なる場。貴様らの浅ましい物乞いを聞く場所ではない!」
局長の怒号に、群がっていた羽虫たちが一斉に肩を震わせ、石像のように硬直した。局長の左目に映る本音は、相変わらずの深い信頼と、そして底知れぬ疲労に満ちていた。
【セレスティーナ、君が伯爵になったことで、寄ってくる連中の質が一段と下がったな。私の執務室まで彼らの強欲な声が響いて、仕事にならん。さて、この亡者どもをどう片付けるか。君の算盤の腕を見せてもらおう。その後で、昨晩見つけたハミルトンの裏帳簿について精査せねばならんからな。彼女のことだ、また恐ろしい数字を見つけ出すに違いない】
私は、局長の厳格なる助け舟に対し、優雅に、そして最高に鋭い微笑を返した。
「局長、お手を煩わせて申し訳ございません。ですが、この羽虫たちの処理は、わたくしの仕事の一部。不純な数字を一つずつ潰していくことこそが、わたくしにとって最大の愉悦。……皆様」
私は、廊下にたむろする全ての者たちへ向け、銀鈴のような、しかし絶対的な重みを持つ声を放った。
「わたくしへの祝辞は、もう十分ですわ。これより、本日この場所にいらした全ての皆様に対し、抜き打ちの資産調査を開始いたします。やましいことが一つもないという自信がある方のみ、ここでわたくしの精算をお待ちくださいませ。それ以外の方は、すぐにこの場から立ち去ることをお勧めしますわ。さもなければ、皆様の『本音』と『帳簿』、その全てを白日の下に晒し上げることになりますわよ?」
その宣言が響き渡った直後、廊下を埋めていた人々は、文字通り蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。逃げ惑う彼らの背中に、私は冷淡な一瞥をくれる。後に残ったのは、静まり返った回廊と、満足げに鼻を鳴らす局長だけだ。
私は、伯爵のマントを翻し、執務室の重厚な扉を開く。机の上に山積みになったハミルトン侯爵の裏帳簿。この世から嘘をなくすことはできない。だが、私の左目に映る本音が語る限り、私の算盤は止まることもない。
「さて、夜明けまでに、この国の汚れを全て数字に直して差し上げますわ」
私は椅子に深く腰掛け、インクを吸わせた羽根ペンを構えた。蜜に群がる羽虫は払った。これから始まるのは、真に知略を尽くした、数字と血の通わぬ欲望との、孤独で高潔な戦いなのだ。
インクの香りが鼻腔を突き、私は静かに算盤の玉を弾き始めた。一打、また一打。その音は、王国に蔓延る悪を裁く、終わりのない断頭台の響きにも感じられた。
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