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搾取令嬢は二度と騙されない ~嘘を見抜く左目で、すべてを取り戻します~  作者: 第三ひよこ丸


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第052話 前世の名を刻んだ家名は逃げ場なき黄金の檻、叙爵の重みは国家を縛る首輪となりますわ

 喧騒が遠のいていく。

 先ほどまで謁見の間を埋め尽くしていた貴族たちの、湿り気を帯びた欲望や、肌を刺すような畏怖の気配が、潮が引くように扉の向こうへと消えていった。残されたのは、高い天井に反響する微かな衣擦れの音と、沈み始めた夕陽が床に落とす、長く、鋭利な影だけだ。


 ハミルトン侯爵を地下牢へと突き落とした余韻は、冷たい大気となって肌を撫でる。私は、先ほど国王陛下から告げられた『叙爵』という言葉の重みを、目に見えぬ鎖のように感じていた。それは栄誉という名の甘い果実ではない。私という存在を国家という巨大な歯車に固定するための、逃げ場なき黄金の檻に他ならない。


「セレスティーナよ。これよりは、一介の官吏としての振る舞いは許されぬ。其方はもはや、誰かの陰に隠れて数字を弾く子供ではないのだ」


 玉座の前、一段高い場所から見下ろす国王陛下の声は、先ほどまでの儀礼的な響きを脱ぎ捨て、一国の支配者としての峻厳な響きを帯びていた。陛下の黄金色の瞳には、私を”便利な道具”としてではなく、”王国の根幹を支える柱”として、一生涯使い潰すという非情な決意が宿っているようだった。


「其方は今日、アデレイド伯爵家の娘という庇護を失った。これより其方は、自らを始祖とする新たな独立家門の主だ。……王命である。其方の家門を象徴し、王国の歴史に刻むべき『家名』を、今この場で定めよ。其方の算盤が刻む、不変の正義に相応しい名をな」


 

 家名。

 

 それはこの世界において、血の繋がりを超えた()()()()だ。

 傍らに控えるレナート殿下が、私の手をそっと、しかし逃がさぬように強く握りしめた。その眼には、同志としての献身と、共犯者としての深い執着が混ざり合っている。


【家名……。彼女が選ぶその名は、私と彼女を結ぶ新しい絆の形になる。どんな高潔な名を選ぶのだろうか。アデレイドの名を継承するのか、あるいは彼女の鋭利な才を象徴する、もっと峻烈で美しい名か? 何を選ぼうと、私はその名のすべてを愛し、守り、そしていつか、王家の名で塗り替えてみせる】


 殿下の内に渦巻く、独占欲という名の熱い奔流が、私の左目に色鮮やかに映り込む。

 だが、私自身の思考は、彼らの期待とは全く別の場所を彷徨っていた。


 

 (家名って言う事は、苗字よね……)


 意識が、ふと現世の殺伐とした空気を離れ、深い記憶の底へと潜り込む。

 鉄とインクの香りにまみれたこの世界での十五年間ではなく、もっと平穏で、数字に追われつつもこれほど命のやり取りなどしていなかった、かつての自分の姿。

 

 残業続きの夜、電卓を叩きながら啜ったコーヒーの苦味。

 提出期限に追われ、深夜のオフィスで独り戦っていた、あの孤独で、けれどどこか誇らしかった事務職としてのアイデンティティ。

 私を私たらしめていた、あの質素で、けれど揺るぎなかった日々の残滓。


 (転生前は、松瀬まつせだったから……)


 それは、今世の私を支える『芯』の部分に触れる、単なる独り言に過ぎなかった。

 だが、音を立てることも憚られる静寂の広間において、私の唇から零れたその音節は、思いのほか鮮明に響いてしまった。


 

「……マツセ」

「マッセ……? セレスティーナ、今、そう言ったのかい?」


 レナート殿下が、その未知の響きを不思議そうに、けれど愛おしそうに反芻した。

 

 (しまった)と内心で顔をしかめたが、もはや手遅れだ。こちらの世界の耳には、それは「マッセ」という短く、かつ力強い響きとして届いたらしい。


 

 国王陛下が、その名を吟味するように目を細められた。


「マッセというのか。……良いではないか。古の言葉で『質量』や『積み重なりし真理』を意味する響きにも通ずる。其方の数字が持つ重み、そしてこれからの王国を支える揺るぎなき意志を象徴する名として、これ以上のものはない。マッセというのか? 良いではないか。セレスティーナ・マッセ」


 陛下は、私が無意識に漏らした前世の苗字を、勝手に高尚な意味付けと共に解釈し、深く納得された。王の言葉は絶対だ。私が「いえ、ただの苗字です」と訂正する隙など、微塵も残されていなかった。


 

「セレスティーナ・マッセ。今日からそれが其方の、そして新たな伯爵家の名だ。其方が引く赤線、其方が記す署名は、すべて『マッセ』の名において王の意志と見なす。其方は今日から、この国の帳簿を守り、害悪を喰らい尽くす唯一の番犬だ」


 王の声が謁見の間に響き渡ると同時に、背後で控えていた財務局長ゼノス・ヴァン・クライン伯爵が、感極まった様子で自身の髭を震わせた。


【マッセ! なんと機能的で、無駄のない響きか! まるで計算式の答えそのもののような潔さだ。彼女は家名にさえ、余計な虚飾を排し、本質のみを抽出したのか。セレスティーナ・マッセ……。この名が帳簿に載るだけで、不届きな貴族どもは己の首筋を撫でることになるだろう。これぞ、財務官吏の至宝が選ぶべき、最高の戦闘名だ!】


 局長の、信頼と狂信が入り混じった本音が視覚化され、私は盛大なため息を内心で飲み込んだ。

 

 (まあ、松瀬がマッセになったところで、私のやることは変わりませんわね。むしろ、私の根源にある名の方が、この狂った世界への皮肉が利いていて良いかしら)


「さらには、国家財務の全権監査権を正式に其方へ付与する。王族であろうと、大臣であろうと、其方の算盤が『否』と弾いた支出は、すべて余への反逆とみなす。其方は今日から、この国の帳簿を守り、不浄を正す者となれ。……その爵位という枷は、其方を縛るのみならず、敵を打つための重石となるだろう」


 私は、陛下から下された言葉の重みを、二度と外れない黄金の首輪のように感じていた。伯爵位。それは栄誉などではなく、より広大な範囲を精算し、より多くの怨嗟を背負うための、逃げ場のない檻そのものだ。


 隣でレナート殿下が、私の手を引き寄せ、熱を帯びた声で囁いた。


「おめでとう、セレスティーナ・マッセ伯爵。……これで、君を縛るものがまた一つ増えたね。君が望む自由なんて、この家名という鎖がすべて断ち切ってくれる。もうどこにも逃がさないよ。一生、私の側で、その恐ろしくも美しい数字を弾き続けておくれ」


 殿下の瞳に宿る、同志としての深い献身と、隠しきれない凶悪なまでの執着。

 私は、その熱にあてられそうになりながらも、最高に峻厳な、しかし誰をも魅了する美しい微笑を浮かべて、言い放った。


「あら。殿下のその不吉な喜びも、後ほどたっぷりと『精算』させていただきますわよ? 覚悟しておいてくださいませ。伯爵となったわたくしの算盤は、以前よりもずっと重いのですから」


 

 十五歳の春。

 私は前世の記憶の残滓を、この異世界の貴族社会における「不変の質量」へと昇華させた。

 マッセ。その名が刻まれた真新しい印章は、これからこの国の歴史を塗り替え、数多の腐敗を切り裂く刃となるだろう。


 窓の外、夜の帳が降り始める。

 だが、私には休んでいる暇などない。ハミルトン侯爵の隠し資産、騎士団の使途不明金、そしてこの叙爵に便乗して私腹を肥やそうとするハイエナ共の動向。


「さあ、始めましょうか。今夜は、一文の誤差も許さない、完璧な夜明けにいたしますわ」


 私は、新しい家門の主として、そして王国の番犬として、確かな勝利の予感と共に、次なる戦場へと歩み出すのだ。

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