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搾取令嬢は二度と騙されない ~嘘を見抜く左目で、すべてを取り戻します~  作者: 第三ひよこ丸


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第049話 王子の執愛は鉄格子のない牢獄であり、番犬の首を締め上げますわ

 私は、まだ指先に昨夜の算盤の感触を残したまま、椅子に深く腰を下ろして彼を迎え入れた。

 計算機のように整然としていた私の思考は、彼の琥珀色の瞳に見つめられるだけで、内部の歯車が噛み合わぬような異音を立て始めている。


 彼は私と机を挟んで対峙する位置で足を止めると、まるで私の退路を断つかのような強さで、厚い執務机の両端にその大きな手を置いた。

 身を乗り出すようにして距離を詰める彼の体温が、冬の朝の冷気を追い出し、私の肌をじりじりと灼き焦がしていく。


「……計算の邪魔をして済まない。だが、これだけは今すぐ伝えなければならなくてね」


 彼の声は、昨夜の祝宴での穏やかな響きとは似ても似つかぬ、地を這うような重みを湛えていた。

 私は、感情を排した仮面を一層強固に纏い、あえて突き放すように問いかける。


「殿下、昨夜の不正貴族どもの精算はまだ始まったばかりです。そのような切迫したご様子で、一体何をお伝えになりたいのですか。わたくしには、まだ数え終えなければならない不正の数字が山積しておりますの。無駄な時間は、一文の利益も生み出しませんわ」


 しかし、レナート殿下はその言葉を、羽虫の羽音でも聞くかのように聞き流した。

 彼はゆっくりと、だが拒絶を許さない力強さで、書類の上に置かれた私の右手に自分の掌を重ねる。

 肌から直接伝わる圧倒的なまでの熱。それは、彼がもはや私の庇護を必要とする子供ではなく、奪い、支配することを覚えた一人の男であることを、残酷なまでに突きつけてくる。


 同時に、私の左目が捉える視界が、不快なほど鮮明に歪んだ。

 彼の胸の奥底から、普段の穏やかな王子としての振る舞いでは決して見せない、獣のような【本音】が剥き出しになって溢れ出してくる。


【君がどれほど冷たい言葉の壁を築こうと、その計算高い頭脳ごと、私の檻に閉じ込めてしまいたい】

 

【昨夜、君が他の男たちを誘い出し、騙すために見せた、あの偽りの『隙』を、私以外の誰にも二度と見せたくないんだ。あんな顔、私だけが知っていればいい。私だけが、君を乱していいはずだ】

 

【セレスティーナ、君の気持が傾くまで、私は何度でもこの熱を君に流し込む。君が私なしでは一歩も歩けなくなる、その日まで、私は君を離さない。たとえそれが、君の望まぬ形であったとしても】


 私は、奥歯が鳴るのを必死に抑え込んだ。

 これほどまでに濃密な執着を向けられたことはない。

 彼が伝えにきたのは、単なる状況報告などではなく、私という存在そのものを彼の支配下に置くという、逃げ場なき監禁の宣告に等しかった。


「昨夜、君が酔ったふりをして奴らを罠にかけたことは、すべて報告を受けた。……それを聞いた時、私の心臓がどれほど凍りついたか、君にはわかるかい? 君を囮にするような真似を、なぜ私に無断で行ったんだ」


「……それは、いささか大袈裟ですわ。殿下。私が、私自身の役割を全うすること。それが、この国の秩序を最も効率的に守る手段です。殿下も、そのことは重々ご理解されているはずです。無関心な数字こそが、最も正しい結果を導き出すのですから」


「理解などしたくない。君を囮にしてまで守らなければならない玉座なら、私は、この手で壊してしまっても構わない。君が誰かの悪意に晒されることを、私がどれほど恐れているか。……それを教えるためなら、私は、この国の主として、君を一生この部屋から出さないことさえ厭わない」


 彼の指が、私の指の間に強引に滑り込む。

 指先を絡め取られ、逃げ場を失った私の手は、彼の熱に呑み込まれていく。

 左目が捉える【本音】は、さらに深く、暗い欲望へと形を変えていった。


【君を失うくらいなら、憎まれても構わない。君の自由な羽をすべてむしり取り、私の腕の中だけでしか呼吸できないようにしてしまいたい。君が弾く算盤の音も、その鋭い微笑みも、流す涙も、すべて私だけのものにする。君は、王宮の番犬ではなく、私の私有物になるんだ】


 一国の財務を預かる番犬としての私の首に、レナート殿下は王としての、目に見えない鎖を繋ぎ変えようとしている。

 彼の瞳にあるのは、もはや純粋な憧憬ではない。それは、手に入れた獲物を二度と離さないと誓った、捕食者の確信だった。


「殿下、そのような熱に浮かされたお言葉……。わたくしの計算には、含まれておりませんでしたわ。これは、予測不能な、あってはならない誤差です」


 私は、震えそうになる声をなんとか押し殺し、彼の瞳を真っ向から見据え返した。

 至近距離で触れ合う吐息が、私の理性をじりじりと削り取っていく。


「誤差があるなら、修正すればいい。君の人生のすべてを、私という数式で埋め尽くしてあげるよ。君を狙う輩も、君を傷つける数字も、すべて私が排除する。その代わり、君のすべてを私に差し出すんだ」


 レナート殿下はそう囁くと、私の抵抗を封じるように、さらにもう一歩、私との境界線を踏み越えてきた。

 彼の手が私の頬に触れる。その指先は、驚くほど震えていた。

 激しい独占欲の裏にある、私を失うことへの根源的な恐怖。その脆弱さが、逆に私を逃げられなくさせる。


 私は、逃げることのできない予感に震えながら、彼が差し出す、謝罪という名の白旗を、今はただ、静かに受け入れるしかなかった。

 

 だが、これは降伏ではない。

 彼が私を縛り付けようとするならば、私はその鎖を逆手に取り、王国の帳簿を書き換えるための力として利用するまでだ。


 完璧な秩序の代名詞であったはずの財務局の執務室は、今や、彼の愛という名の猛毒に侵食され、崩れ去ろうとしていた。

 

 私は、彼の胸に手を押し当て、最後の抵抗を試みる。

 だが、その指先から伝わってくるのは、彼の激しい鼓動だけではなかった。

 私を求める、あまりにも真っ直ぐで、あまりにも歪んだ、彼の魂の叫びそのものだった。


 私は目を閉じ、深く息を吐き出す。

 計算機としての私は、ここで一度、死んだのかもしれない。

 次に目を開けたとき、私の前にいるのは、救うべき王子ではなく、私を喰らい尽くそうとする一人の男なのだと、悟らざるを得なかった。

 

 私は、まだ彼を受け入れたわけではない。

 ただ、この熱そのものを、新たな計算式の一部として組み込む覚悟を決めたに過ぎない。

 朝陽に照らされた執務室の中で、私たちの影は一つに重なり、逃げ場のない愛の牢獄が、音を立てて完成していくのを感じていた。

 

 私は、重い沈黙を破り、彼を突き放すように言った。

 

「……殿下、近すぎますわ。計算が狂います。今は、公務の話をいたしましょう」

 私の声は、いつになく震えていた。


 彼はわずかに眉を寄せたが、私の頑なな拒絶に、渋々とその身体を離した。

 だが、その琥珀色の瞳は、依然として私を捉えたまま離そうとしない。

 彼は、机の上に広げられた不正貴族のリストを指先でなぞった。


「わかった。今は、君の愛する数字の話をしよう。だが、セレスティーナ……、バルトス伯爵の背後には、まだ大きな影が潜んでいる。それだけは忘れないでくれ。君が一人で背負いきれないほどの巨大な毒だ」


 彼の言葉に、私は僅かに目を見開いた。

 バルトス伯爵はあくまで露払いに過ぎないというのか。

 私は、再び算盤を手繰り寄せる。

 レナート殿下の歪んだ熱を胸に秘めたまま、私は新たなる精算の準備に取り掛かる。


 王宮の番犬として。

 そして、いつか彼という名の牢獄に囚われる、その日までの自由を噛みしめるために。

 私は筆を執り、次なる粛清の計画を、血のように赤いインクで綴り始めた。

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